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フロウ・ストリーム 2
* * *
「あれ、もしかしてアッキー?」
そろそろ飲み物も尽きそうなころ、背後から控えめな声がかけられた。
ゆるく巻いたベージュの髪に、くりっとした丸い瞳。驚いたように小さく開いた唇に引かれた、淡い色の口紅。オフホワイトのコートに、カシミヤ素材のピンク色のストール。綿菓子めいた外見の割には身長が高く、まるできらびやかなファッションモデルそのものだった。謎の心理が働き、春斗は無意識に手櫛で髪を整えた。年頃の男の本能だろうか。
「ええと、えっと……、千沙?」
しばらくきょとんとしていた秋津が声を返すと、女性はぱっと表情を輝かせて胸をなで下ろした。
「私だって分かってくれた? よかったぁ」
彼女が手を振ると、淡水パールのブレスレットが揺れる小さな音がした。ふわりと漂う甘い香りに、思春期の少年はそわそわしてしまう。年上の美人には免疫がないので、否が応にもドギマギしてしまう。
「ああ、えっと、こちらは千沙。高校からの友達。で、この子はコク……じゃなかった、春斗くん。……その、」
知り合い、と言うのは薄情だし、友達、でもない。恋人ではないし、どう紹介しようかと考えあぐねていると春斗が深々と背を折りたたんで、たぶんお辞儀をした。
「はじ、初めましてヴィルグルフト吉田です。秋津さんのお友達をさせていただいています、十七歳の黒い童謡です」
「ちょ、ちょっと春斗くん落ち着いて! AV男優みたいな名前になってるし、わけ分かんないこと言ってるよ!」
「すみ、すみません、なにぶん人間界は久方ぶりなもので、あのあのあ、あの、あ……」
「わ、わかったから落ち着いてってば!」
「そうそう。そんなに畏まらなくても、私、こう見えてキミと同性なの! だから大丈夫だよ」
自分の汚れたスニーカーを見下ろしながら春斗は固まる。
「え……?」
そろりと顔だけを上げると、千沙は小首を傾げてにっこりと笑っていた。眩しさに圧倒されて、ウウと呻いて半歩後じさる。
「春斗くんの噂はたっぷり聞いてるよ。……ね、ね、アッキー、ちょっと春斗くん借りてもいい? もう食べ終わってるよね?」
「あー、僕は構わないけど……、この子の精神が心配だなあ。大丈夫? 耐えられる?」
「えあ、あ、っはい……」
「相変わらずひっどい言い方だなあ。さ、お許しも出たことだし、あっちの席で内緒話しよ?」
まるで魔物に連れ去られるかのごとき言い様に、千沙がころころと笑う。たくさんの笑い方を知っている人だ。めまぐるしく変わる表情に目が釘付けになる。
『キミと同性なの!』という先の言葉が頭の中でぐるぐると回るものの、千沙は春斗の混乱など素知らぬ顔で大きなボストンバッグを持ち直した。
コートを翻して先導する彼女の後ろ姿をふらふらと追いながら秋津を振り返ると、頬杖を突いていた手をゆるりと振られ、その手に巻かれた腕時計が陽光を反射して瞳を灼いた。この人もまた、眩しい。洗練された大人の所作のひとつひとつが春斗の胸を焦がす。
「春斗君はモーニングを食べたんだよね。じゃ、一緒にデザート食べない? 何がいいかな、好きなもの注文していいよ。ご馳走させて?」
「うあ、でも、あの……」
「いいからいいから、気にしないで。もし食べきれなかったら、責任もって私が食べてあげるからさ」
しどろもどろに目を泳がせる初心な少年の様子を愉しげに見守りながら、千沙は秋津の方へと目配せする。案の定、すこし心配そうな視線とぶつかった。だいじょうぶ、と唇だけで語り、手を振る。大声でしゃべらない限り、こちらの会話は聞こえないだろう。まかせておけ、と念を送ったつもりだが、果たして伝わっているのか。
秋津は不敵に笑う千沙に一瞬たじろぎ、ラックから拝借していた雑誌に目を落として震えた。確実に、何かを吹き込むつもりだ。どこまでも柔和な外見とは裏腹に、千沙は人一倍アグレッシブで、こと友人の恋愛に対しては多分におせっかいなきらいがあるのだ。
「私、ミルフィーユに決めた。春斗くんは?」
「あ、じゃあ俺は、レ、レモンタルト……」
「おっけー。マスター、オーダーいいですか?」
千沙の凛とした声が耳を包む。美しい人を前にして惚けてしまう性は、春斗を落ち着かなくさせた。
「あの……、」
柔らかい視線を一身に浴びていたたまれない春斗は指を組んで瞳を泳がせる。千沙は頷いて口火を切った。
「安心して。アッキーとはただの腐れ縁ってだけだから」
「い、いや、そそ、そんなことは……」
見透かされている。親密そうな二人の関係を気にしていることを。
「高校の時からの友達なんだぁ。こう見えても、泥臭い喧嘩だってしたことあるのよ?」
「えっ、そうなんですか……」
意外だ。秋津と千沙、どちらを取ってみても激高する姿とは無縁に見えてしまう。
「ふふ、そうだよ。あれは確か、教科書を借りたときだったかなあ。全部のページにパラパラ漫画を書いて返したらそれはもう怒ってねえ。私としてはかなり良いストーリーに仕立てたつもりなんだけど、どうも結末が気に入らなかったみたいで」
「あ、怒るポイントそっちなんだ」
声を上げて笑う千沙につられて吹き出すと、背後にじとっとした視線を感じた。睨まれている気がする。かつての教科書の持ち主に。
彼女の屈託ない話し方や慈愛を含んだ視線に絆され、マスターがデザートを運んで来る頃には、大の人見知りである春斗もぽつぽつと会話を繋げられるようになっていた。
「ミルフィーユ、食べてみる?」
「あ、ありがとうございます。じゃあ俺のもどうぞ」
皿を押し出すと、千沙は子供のように喜んでタルトを一口分切り取り口に運んだ。一方春斗は、どうぞと差し出されたミルフィーユを前に動きを止めた。表情が凍る。せっかく彼女がきれいに食べているのに、自分がフォークを入れると粉砕してしまいそうだ。たじろぐ春斗を不思議そうに見つめ、千沙は「ああ」と思い至った。
「ほら、あーん」
更にたじろぐ。千沙は相変わらずの美しさでミルフィーユを切り分け、春斗の口元に掲げた。
「……はい」
めいいっぱい迷っている少年に笑顔を向け、決してフォークを下げない千沙に春斗は観念して身を乗り出した。汚れないように横髪を耳にかけて、ぱかりと口を開ける。
「どう、おいしいでしょ」
「……おいしい、です」
口の端に付いたクリームをナプキンで拭き取られる。姉が居たらこんな感じだろうか。そんな想像を知ってか知らずか、千沙はフォークを置いて指を組んだ。
「……さっきも言ったけどね、私、少し前まで男だったんだぁ。今はもう、戸籍上も女性だけどね」
カップに口を付ける彼女に倣い、春斗も同じ動作で水を一口飲んだ。視線の先にある華奢な指。そして耳を撫でる柔らかいアルト。豊かな髪も丸い頬も、どこをどう切り取ったって女性のそれだ。あまり見つめるのも不躾だと思い直して俯く。沈黙が流れる前に、千沙が小さく手を打ち鳴らした。
「あ、そうだ。春斗くんは、名前を漢字で書くと“春の人”?」
「春は合ってますけど、斗は、北斗の“斗”です」
「そっかぁ。やったね、おそろいだ」
千沙は破顔してケースから名刺を取り出した。北條千沙斗。肩書はネイリストと記されている。
「チサトって名前の響き、女の子っぽいでしょ。だから名前は変えてないんだ。気に入ってるし」
懐かしげに瞳を細める。春斗のよく知る、心の海に沈んだ思い出を見つめている顔だ。
「おとうさんが付けてくれた名前なんだよね。私が性別を変えたいって言ったときもね、ひとつも反対なんてしなかった」
薄桃色の爪で名刺ケースをなぞる。表情は伏せられているが、唇はゆるく弧を描いていた。彼女が語る心の海に春斗は黙って耳を傾ける。
「昔気質の堅い人でさぁ、喧嘩してばっかりだったけど、そのときだけは優しかったなあ。自分の心ひとつで選択できたお前は誰より強い、耐えた先には必ず幸せがあるって……」
千沙は震える声で小さく謝り、目尻を指で擦った。
春斗には想像もつかぬ地獄の経験を経て、彼女は性別を変えたのだ。そして、心身を抉る極限の苦しみを越えたからだろうか、千沙は生命力そのものが濃いように思える。輝いている。彼女は、きっと強い。デリケートな思い出と記憶だろうに、きっと春斗と打ち解けるためだけに話してくれている。
「おかあさんは困惑していたけれど、そのうち娘ができるのもいいわねって笑ってくれてさ。悩んでたことがばかばかしくなっちゃうくらい、とっても、簡単だった」
へへ、という子供のような笑みに、春斗もほっと表情を崩した。
『とっても、簡単だった』
そのせりふは、春斗のこころへと深く染み渡った。
秋津への気持ちも、思えばとても簡単なことだった。ただひたすらに“好き”というひとつの感情だけがあっただけなのだ。会う理由がないだとか、そんな些細な気がかりなんてどこかへ吹き飛んでしまうほどに純粋な、純粋すぎる愛情だけがこの胸にあったはずだ。
「あは、ようやく笑ってくれたね、春斗くん。で、アッキーとはどこまで進んでるの?」
和やかな雰囲気から一転、盛大に噎せた。
「げほっ、あの、どう、どういう……」
「そのままの意味だけど? アッキー、ああ見えて臆病だからねー。もしかして、明確な言葉を君にあげていないままなんじゃないかなって思って」
テーブルに零れた紅茶を拭いていた春斗の手が止まる。明らかに図星だった。やっぱりそうかと細いため息を吐かれる。
「ど、どうして……」
「あはは、なんとなく分かるよ。あいつ、昔っからひねくれてたからね。ま、だから仲良くできたって一面もあるけどさ」
素直にうなずく。出逢ってすぐ、秋津と千沙には二人だけの世界があるように感じたのだ。それこそ、自分と浅倉のような関係を想起させるほどの。千沙の瞳が宙を見やると白目が輝いた。
「高校生のころね、アッキーは口数も少ないしピリピリしてるし、そりゃもうひどかったんだから。私は私でこんな調子でしょ、女子にも男子にも溶け込めなくて一人で浮いてたの。それが爪弾き者同士、なんとなく一緒にいることが多くなって、卒業する頃には親友みたいになってたなあ」
「へぇ……」
今の秋津からは想像ができない。千沙は遠い記憶を思い浮かべて一瞬吹き出した。
「そんで、恋愛相談みたいなものをしたりされたり、色々な事を教えてくれたよ。性転換について熱心に調べてくれたり、遠回しに勇気づけてくれたり」
(恋愛相談、したんだ、秋津さんも……)
当たり前だけれど、彼にも恋に狂い悩んだ相手がいた。思考がどろりと濁るような感覚に陥ったが、過去のことは仕方がないと思い直す。どうしようもない。とうの昔に散ってしまった、過ぎ去った春だ。
「私はいつもアッキーに勉強を見てもらっていたから成績もうなぎ昇りでさ、一緒の大学に行けるまでになったの。大学に入ってからは、アッキーも丸くなったみたいだけどね。あんなに頭が堅くて人中でやっていけんのかなあって心配してたけど、安心したよ。彼、意外と人付き合い苦手だからね」
「そうなんですか……」
秋津は今、暇を持て余したマスターとサッカー談義に花を咲かせている。楽しげな横顔が胸に刺さる。彼が今まで見てきたもの、憤ってきたもの、歓喜したもの、焦がれたもの、――――何も知らない。
寂しげな表情を滲ませて想い人を瞳に映す春斗に、千沙は苦笑した。
「でもきっと、本質はそこまで急には変われないから。たぶん、今でもあまり人との距離をうまく測れないんじゃないかな。特に……大切なものに対しては」
「大切な、もの……」
「そ。近くなるのが怖いんだよ、アッキーは。手放せなくなるから。目の前からいなくなった時に、堪えるから」
千沙の声に憂愁が滲む。秋津の亡き母のことが起因しているのではないだろうかと覚ったが、春斗は口を噤んだ。彼女に答えを請うより、その時がきたら秋津の秘めた思いを静かに受け入れるのが一番良いのだと諒解した。なにより、知りたいという思いだけで秋津の大事な記憶を無神経にかき乱したくなかった。
「あ、はは。ごめんね、ついつい一人で喋りすぎちゃった」
申し訳なさそうに眉根を寄せる千沙に、いえ、と返す。彼女が頼んだアイスティーの氷がからんとバランスを崩した。ふ、と息を吐く。
「……秋津さんは、いろいろ考えているんですね。きっと俺の考えが及ばないところまで。それを知りながら、俺はいつも秋津さんに甘えてばかりいて、頼りきっていて。でも、出会ってからそんなに時間は経ってはいないけど、俺は、本当に……」
秋津さんが好きなんです。と言いかけて、慌てて言葉を消した。こころのなかで形を成したばかりの若い感情がふいに口を衝いて出そうになり、泣きそうな表情で瞳を泳がせた。目に見えて狼狽する春斗に千沙は瞠目する。
(びっくりした……、春斗くん、こんな顔するんだ)
つい先日、秋津が『面白い子と出会った』とメールで言っていた事から鑑みても、この二人の間にはただならぬ何かがあると踏んでいた。好きな人や恋人ができたとしても、自らの私生活についてあまり口にしない秋津が、珍しく自分の方から連絡してきたのだ。これはただ事ではないと勘ぐってはいたが、実際にふたりの姿を見て尚更その思いを強くした。秋津の視線に甘痒いものが混ざっている。はじめて見る表情だった。
そして次に、彼らがもやもやとした宙ぶらりんな交際をしているのではないかと推察した。空気はひたすら甘やかなのに、ふとした瞬間に互いに視線を逸らしてしまう。まるで片想いが永劫に続く、焦慮の初恋だ。
千沙は呑んだ息を吐き出して、びくびくと萎縮する少年に微笑む。手を伸ばす。
「だぁいじょうぶ。君はそれでいいんだよ。あとは、アッキーの覚悟次第なんだから」
しなやかで長い指が、春斗の前髪を梳いて頬を撫でる。昔、母にこうしてもらったような気がする。なんとなくだけど、もしかしたら違っているかもしれないけれど、きっと春斗の母もこうしてあたかかく頬を包んでくれた。
「さあ、そろそろアッキーが寂しがってるだろうから、戻ろうか。私はこのあと仕事があるから、お先に失礼するね」
バッグを肩にかけて立ち上がった千沙は、伝票を指先で挟んでひらひらと振った。春風のように軽やかで、春斗は思考も行動も彼女には一向に追いつけない。慌てて追いすがるように席を立つ。
「あっ、あの、ありがとうございました。お姉ちゃんが出来たみたいで、おれ、その、……うれしかったです」
それでもなんとかあらん限りの精神力を総動員して礼を述べる。がくりとうなだれたように見えるお辞儀をすると、ヒールを鳴らしながら駆け寄って来た彼女に高速で頭を撫でられた。静電気で髪の毛がふんわりするほどに。
「また、一緒にごはん食べよ。何かあったら、ううん、何もなくても、いつでも連絡ちょうだいね」
大輪の花が咲いたような笑顔を残して、千沙は秋津と二、三言ことばを交わしてから店を出て行った。残り香を追うようにしながら、春斗も秋津のいるテーブルへと帰る。その間、秋津に挙動をじっと見つめられていて足取りが覚束なくなる。見られているというだけで、満足に歩行すらできなくなる。じれったいくらい、夢のように足下がふわふわと浮つく。
「おかえり。ずいぶん楽し気だったね。どうだった、千沙は」
「あー……、なんだか、良い匂いがしました」
率直な感想を述べると、秋津は吹き出して笑った。
「なにそれ、匂いって! またそんな、犬じゃあるまいに」
「だ、だって印象に残ったから……」
そこまで笑われると恥ずかしくなってしまう。消え入りそうな声で弁解にならぬ言い訳をして、生気を抜かれたかのようにふしゅうとうなだれた。
「それにしてもその髪、また千沙の癖が出たな」
喉の奥で笑いながら、秋津は手を伸ばして恥ずかしがる春斗の乱れた髪を整えた。
「千沙の高速ナデナデ。有名だったんだよ、千沙に撫でられると一瞬でハゲるとか、彼女は男をハゲさせる使命を負っているんだとかっていう、よくわからない都市伝説ができたくらいなんだから」
「なんですか、それ……」
確かに、いまだに頭頂部が熱いような気がする。苦笑しながら髪を整え、そろそろと帰宅の準備をする。時計の針は正午を指している。
「さ、じゃあ行こうか。どうする、このあとドライブでもする?」
「い、いいの?」
“もっと一緒にいてもいいの?”という言外の問いに、苦笑混じりにうなずく。
「あたりまえでしょ」
車のキーを指に引っ掛けて立ち上がる。その後を従者のように追いかけながら、春斗は居心地の良いカフェに名残惜しさを感じていた。それを察してか偶然か、秋津はわずかに振り向いて瞳を細める。
「今度、また食べに来ようか」
たったそれだけの些末で曖昧な約束に、寂しげだった少年はひどく嬉しそうに微笑むのだ。
心をそわりと震えさせる真昼の陽光。短い影が二つ、珈琲の煙のように揺れていた。
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