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フロウ・ストリーム 3

 千沙という春色の突風が流星のように駆け抜けたのち、蝸牛の歩みである僕と、若い鹿のようなしなやかさを持つコクヨーくんは、真昼間の日差しを浴びながら珈琲の香りを身にまといドライブに繰り出していた。 『あたらしく植物園ができたって、このあいだニュースでやっていたよ。僕はちょっと行ってみたいんだけど、コクヨーくんは興味ある?』  白々しく、さも今思い付いたという様相を呈したが、本当は一人寂しく夕飯を食べながら見たニュースで、ここに行くのならコクヨーくんと一緒がいいな、なんて思っていたりしたのだ。  植物園を提示されたコクヨーくんは、なんだかよく分からないエティーなんとかさんの家来である植物使いの名を上げ、面妖な召喚呪文を教えてくれた。それにしても、植物を召喚するセンスって何なんだろう。猛獣とか魔物とか、もっと強いものを喚べばいいのになんて素人である僕は思ってしまうけれど、それをコクヨーくんに告げでもすればきっと拗ねて口をきいてくれなくなるに違いない。 「冬の植物園って、何があるんだろう」 「菊とか、サルビアとか、ポインセチア、あとはバルーンアートと花火、エトセトラ。ほとんど催し物って感じですね」  独り言のような問いに、コクヨーくんは律儀にパンフレットを指で追いながら答えてくれた。貸したシャツがだぶつくのがイヤなのか、了承を得て手首まで折り返している。「皴になったらごめんなさい」と申し訳なさそうに言う謙虚さがいじらしい。 「あ、下旬になればイルミネーションが観られるらしいんだけど、この季節だとまだみたいだね。すこし観てみたかった……かな」 「また下旬にも来る? ――――ふたりで」 「えっ……と、……あ、はい」  下旬もずっときみといたい。そんな気持ちが込められていることを汲んだのか、最初は目を丸くしていた彼の小さな耳朶が目に見えて色付いていく。繊細な花を育てている気分だ。 「あ、あのっ、順路的にはあっちの温室を通っていくルートが良いみたいですよ」  皴になりそうなほどパンフレットを握りしめ、コクヨーくんは赤い耳を隠すようにさっと踵を返してしまう。 「はいはい、あっちからね」  笑いを押し殺し、背の低い彼の先導に身を任せた。ぎこちなく進む彼の歩幅に合わせて揺れる腕の、だぶついた袖。たとえ少し上等なシャツが皴になったとしても、その服の消えぬ皴すら愛おしく思えるだろう。  植物園だというのに、温室に着いたコクヨーくんは緑色の鳥に夢中になっていた。華奢な肩や腕に小鳥を侍らせている姿はうれしそうで何よりだ。彼の手にはもう餌となるリンゴは無いのに、鮮やかな鳥たちは彼のそばから離れる気配がない。必然的にコクヨーくんの興味もそちらの方へと向いている。  僕はというと、ひとり寂しく、彼が持ち歩いていた『エティノワール―夢幻とラグナロクの羅針盤―』という、噂のエティーさんが活躍するライトノベルの一巻を暇つぶしに読ませてもらっていた。どうせ餌を持たぬ僕に、鳥は集まってくれない。 「ヴィゾフニルよ、我が魂をユグドラシルへと誘うか……? ククッ、安心しろ、レーヴァテインは持っておらんよ。あ、いてて、こら、つつかないで!」 「ねぇコクヨーくん。エクスプロージョン・スピアとハヴォリック・ハリケーンはどっちが強いの?」 「ハヴォリック・ハリケーンですよ! …………ふふっ、もうリンゴ持ってないのに、こんなに懐いている。かわいいな」 「ふうん。じゃあ、どうして超弩級羅針盤神族が粛清にやってきたとき、ハリケーンを使わなかったの?」 「ああ、それはですね。その少し前に、エティーが治癒術を使う描写があるんだよ。あるんですよ。そのせいでハリケーンを使うほどのマジックポイントが残っていなかったんだ」 「はぁ~、なるほどねえ。結構細かく設定されてんのね」  ポインセチアが咲き誇り、翡翠色のエボシドリが優雅に舞い踊るうららかな温室で、かたや夢物語の小説を読みふける成人男性と、かたや謎のことばを鳥に囁き続ける少年の組み合わせは異様なほどに浮いている。日曜日、それも新規オープンしたばかりの植物園で冒涜的なまでに花を観賞しない僕たちは、それでもふたり楽しく温室を満喫していた。 「秋津さんはなかなか鋭い。鋭いですよ。のちのち、そういったMPの配分が伏線になってくるところもあるので、ぜひ注意して読んでほしい」  まるでこの物語の作者のように色めき立つコクヨーくんの肩に、ほかの個体より幾分か小さいエボシドリが我が物顔で鎮座している。ずいぶんと懐かれたものだ。 「コクヨーくんってさ、動物に好かれやすいよね」  きょとんとしている鳥を指さすと、彼は満更でもなさそうにうなずく。 「そう、ですね。この間、父がウサギをもらってきたので家の中で飼っているのですが、ずっと膝の上にいて。あの、すごくかわいい」 「へーぇ、なんて名前?」 「銀杏、です」 「ぎんなん……?」  おおよそ名前とは思えぬ単語に眉を寄せた。コクヨーくんはポケットからいそいそと携帯端末を取り出し、画面をずいと差し出してくる。 「あ、いつもは、ぎんちゃんって呼ぶんだけど」  画面にはウサギの写真が映っていた。たれ耳で、おたふく風邪みたいな顔をして、左右の耳の長さが若干異なっている。 「俺は“シルバーチェイサー”って名前にしたかったんだけど、大樹、あ、父さんは“アンバランス巾着”って名前にしたかったみたいで。間を取って、銀杏に落ち着いたんですよ」 「間を取って……?」  字面を思い浮かべ、しばし考える。シルバーで銀。アンバランスで、杏ということだろうか。元の願望を聞いたあとだと、銀杏という名がいかに素晴らしくかわいらしいものか心底実感できてしまう。 「あ、秋津さんは、好き? 動物」 「んー……好きだけど、飼ったことはないかなあ。家も留守にしがちだし、僕一人じゃ、何かあったときに看てやれないかもしれないし」  一人で逝かせるのは、いやだ。  彼の肩口でうっそりと目を閉じ始めた鳥を横目に見やり、重い息を吐いた。温室のもったりとした亜熱帯に疑似した空気が体中に充満する。コクヨーくんは僕の吐息に混じった寂寥感を見抜いたのか、すっと瞳を逸らし、唇をもごもごと動かす。何かを問いたくて、知りたくて、それを理性だとか遠慮だとか、気遣いで必死に抑えている表情だった。エボシドリだけが空気を察知していないかのように、くるくると瞳を走らせている。  僕は読みかけの本を閉じ、ひじ掛けに凭れるようにして頬杖を突いた。 「昨夜もすこし話をしたよね。僕の母は舞台女優だったんだけど……、事故でね」  一度唾を呑み込んでから切り出すと、コクヨーくんが弾かれたように顔を上げた。驚いた鳥が騒々しい羽音を響かせ、飛び立つ。ポインセチアの海に、翡翠が消える。 「病院に運ばれたときは、虫の息だった。――――父はまったく無名の映画監督でさ。小さい劇場で少しの間上映されては忘れ去られていく、そんなものばかり真剣に撮ってたよ。売れやしないのに、何か月も家に帰らなくてさ」  苦笑を交えるが、コクヨーくんはなにも言わず真剣に僕の横顔を見つめていた。 「連絡を受けて、授業を早退して病院に走ったよ。その時にはもう、母の顔には白い布がかかっていた」  白布からたらりと流れた、生白い光を反射するつやつやの黒髪。高熱が出た時にも絶対にケアを怠らなかった、彼女の女優としての誇りだ。高校生だった秋津は何がなんだか分からず、ただ目の前の母が無機物の置物になってしまった事実をなかば無理やりに受け止め、弱音を吐く相手もいないまま腑に落ちないものを抱きつつ、〝人間の終わり〟というものに納得した。納得せざるをえなかった。 「僕が高熱を出したときには全然動揺しなかった父がさ、命を懸けて撮っていた映画を放っぽり出して、沖縄から飛んで帰ってきたんだ。母の遺体に縋り付いて、『お前が主役の映画を撮るって約束だったのに』って……」  押し黙るコクヨーくんに訥々と語りながら、遺体を前にして立ち尽くす貧血気味の少年を俯瞰して見ていた。紙のような顔で俯く過去の自分はいまにも崩れそうな背中を蛍光灯に曝して震えている。一度頭を振って追憶を振り切る。現実の僕はいま、平和な亜熱帯にいる。 「……映画を撮るって、約束をしていたんですね」 「そうみたいだね。僕はそれまで、家庭を顧みなかった父に対して不満を持っていたんだけど、……不思議とね、その瞬間ふっとすべて赦せたんだよ」 「ゆるせた……」  コクヨーくんは口の中で呟き、必死に脳内で考えている。その親身な横顔が僕を慰めてくれていることに、彼は気が付いていない。 「そう。赦せた。どうして母さんを大事にしないんだ、どうしてカメラのレンズばっかり覗いてるんだって、子供ながらに一丁前に憤っていたけどね。それでも父は母を一番に考えていた。いつか自信作の主演に母を添えたいと躍起になってたんだって、はじめて知ったんだ」  恥ずかしがり屋のコクヨーくんが目を逸らさず、僕の吐露を受け止めている。膝の上ばかり見つめていた視線をそちらに移すと、唇を引き結んだままの彼と、彼の背後を真っ赤に染めるポインセチアの群れが目に入った。瞳に薄く張った涙のせいだろうか、やけに眩しくて、もう一度瞳を閉じた。 「……はじめ、再婚の話を聞いたときは、やっぱり複雑だった?」  なにか思うところがあるのか、申し訳なさそうに、おずおずと問う。瞳を開けると真剣な眼差しが僕を捉えた。  現在の僕に義母がいることは話してあった。舞台上で晴れやかに、堂々と立ち振る舞う義母の姿を思い浮かべる。年の差がある上での結婚なので、父よりも自分のほうが歳が近い。宙を見やり、当時の記憶を引っ張り出した。真剣に向き合ってくれているコクヨーくんのためにも、問いには真摯に応えてやらねばならない。 「……そうだね。最初はそりゃあ、良い気はしなかったよ。母さんの事を忘れたのかって、似た女優ならだれでもいいのかって、ひどいことを言ったような気がする」  命を懸けて撮影していたものすら放り出せるほどに愛していたのに、どうしてその愛をほかの女性にも配れるのか、幼い僕には疑問だった。声を荒げるなんて滅多にないはずなのに、その時ばかりは手が震え、魂さえ震えたように思えた。茶を入れたグラスを乱暴にテーブルに置き、それが絨毯まで滴った記憶さえ蘇る。その時に怪我をした右手を摩った。 「志都子さん。滅多に会わないし、連絡もほとんど取らないけどね。彼女も母と同じで、脇役だろうと主演以上のプライドを持ってる。そんな人だから、父も母と同じくらい惚れたんだろうし、僕もこの人ならいいやって、心から納得できた」  いつの間にかやってきていたエボシドリが、ベンチの背もたれ部分に止まる。僕が手を伸ばすとそれは驚いて飛び去り、しばらく旋回したのちにまた同じ位置に止まった。  こんなふうに、人もぐるぐる迂回し、旋回し、やがては一つのところに収束するのではないだろうか。はなから運命が決まっていたかのように。 「はは。暗い話しちゃったね。でも、言えてよかったよ。ずっと、いつか君には話したいなって思ってたから」  行こうかと立ち上がると、彼もそれに倣った。雛鳥のように僕の後ろを着いて歩き、僕はその戸惑いの視線を背中で一身に浴びていた。はじめて誰かに、ありのままの過去や心情を語った。気恥ずかしさや生々しい寂寥にどきどきして、熱い涙が零れそうだった。 「秋津さん」  く、と腕が引かれ、振り返る。コクヨーくんの目元が僕と同じように赤く、熱く熟れている。 「その、聞かせてもらって、うれしい。俺にはほとんどお母さんの記憶はないけど、秋津さんには、ある。楽しいことも、寂しかったことも、全部秋津さんの中で生きてる」  服の袖をつかんでいた指先がするすると下り、僕の硬直した指と絡まる。 「いま、ようやく秋津さんに、さわれた」  こころに、触れた。きゅっと握られる指に、しんしんと積もりつつある熱い感情のうねりが箍が外れたようにせり上がってきて、喉が詰まった。 「コクヨーくん……、僕は、きみが、」  あまりにも彼がうれしそうな表情をするものだから、そのまま引き寄せて骨がきしむほどに抱きしめたいのに、僕たちの横を訝し気に通り過ぎていく人々の流れに乗り、足を動かさずにはいられなかった。  僕たちは人込みの中の一つの塵のように寄り添い、群れと同化する。指と指だけは固く結んだまま、解けることなく揺られる。  さわりたい、こころとからだ。  いま、そのどちらにもしっかりと触れ合い、心地よく同化している。こころに触れた。エボシドリがポインセチアの赤色を縫い、飛び交う。  めまいがするほどに愛おしくて、もはや触れ合うだけではとまらない。そんな気がした。

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