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夜は錦 1

 世間がひそやかにざわめき、浮浮き足立つ師走の到来。新聞を取りに玄関から出ると、きんと冷たい空気に一瞬で手がかじかんでしまう。こんなにも寒いのに陽射しだけはやたらめったら明るくて、狐に抓まされたような、へんな気分になる。手と手を擦りあわせながら早足で新聞を取り込み、チラシや郵便物の不在届を乱雑に投げて、ぬくいキッチンで熱いコーヒーを淹れた。録画していた深夜放送のスポーツニュースをBGMに、新聞をめくる。晴れた冬の朝、陽光がレースカーテンの隙間を縫ってダイニングテーブルをきらめかせる。  秋が終わりかける冷たい台風の日には、泊まりにきたコクヨーくんと共にこのテーブルで夜食を食べた。『味付けは何ですか、美味しいです、最近ミョウガが食べられるようになりました』と、咀嚼の合間に言葉を漏らす彼を対面で眺めながら、やはり人と囲む食卓は良いものだなあと心底思ったのだ。 「明日の準備、しておかないと」  ぼんやりとしているといつまでも雑念に囚われてしまいそうなので、わざに大きな声で独り言をつぶやいて伸びをした。肩がぱきぱきと鳴り、ぎょっとする。昨夜はベッドの上でごろごろしながらコクヨーくんから借りた小説を読んでいたのだが、どうやら知らず知らずの内に堪えていたようだ。日々こうして、少しずつ体は老いていくのか。  小学生のころだっただろうか、ふいに“死”というものが怖くなったことがある。今こうして無為に時を刻んでいる間にも死へ向かっているのだと気付き、家でうどんを食べながら大号泣した。もちろん、泣きながら相談した先の父には爆笑されたが、幼い僕にとっては、それはそれは大変な事件だったのだ。小さな体に宇宙を宿していたような心地だった。涙の味がするうどんを啜ったテーブルで、大人になった僕は仕事で使う資料を広げる。仕事は苦にならない。職場環境が良いせいだろうか、むしろ意欲的だと言える。本来ならば休日にまで仕事の事を考えることはないのだけれど、ここ最近、彼と出会ってからは別だ。残業が無ければ、件の彼と食事にでも行けるかもしれない。こういった地道で影ながらの努力が、円満な恋愛の肝となるのだ。 (恋愛、だって……)  気恥ずかしいような殊勝な努力に、我ながら噴飯してしまいそうになる。過去の恋人めいた人間に、このような思慮を抱いたことなどなかった。ぼんやりと熱を上げては体ばかり、体表ばかりをみっともなくこすり合わせるだけで、心はそれとはまったく別の場所にいたような気がする。休日にわざわざ会おうとすら思わなかったことだってあるし、むしろそれが常だった。面倒くさがりを通り越して、人に無関心だったのだ。相手のこころは二の次どころか、思慮の外側にあった。掠ってもいないことに自分でも気付いていなかったのだろう。こころを求めるふりをしていた。  ――――愛を与えている。愛を受け容れている。ちゃんと、これでもちゃんと心の底では相手を想っているんだ――――。そう言い聞かせてきた。  だからこそ、余計に現状に振り回されている。身体を手に入れるより、こころを己が物にする方がよっぽど難しい。こころは、視えない。掌握できたつもりで、実際は何も掴めていないことばかりだ。視えないものは難しい。  目をモニターに滑らせるばかりで、結局ひとつも仕事は捗っていない。ぬるくなった珈琲で口内を潤し、ゆっくりと飲み下す。目頭をぐりぐりと押し、ため息を吐いた。ただの紙屑としか認識できぬ書類をファイルに綴じ、投げ出す。進まぬなら諦めるしかない。父の唯一の格言だ。  ふて寝の格好で瞳を閉じて脱力する。冷たいテーブルに頬を押し付けて思い浮かべるのは、コクヨーくんの発展途上のしなやかな痩躯。視線が合うだけで赤く色づく耳や、頬。薄い耳の、光が当たると浮かび上がる細かい産毛。うなじを薄く包む、黒い襟足。華奢で細い鼻梁。……足下から胸にかけて桜色の熱が駆け上がってくるのを感じる。と、ふいに自宅の固定電話が鳴った。肩が跳ね上がる。桃色の想像を慌てて追いやりながら立ち上がり、やましいことを隠すかのように受話器を取り上げた。 「はい、秋津……」 『や、誠二郎。ひさしぶりだな』 「父さん……」  受話器越しに聞く、すこし機械じみた声音。電気に分解された父の声は、平素よりも穏やかに聴こえる。 「珍しいね。どうしたの? もしかして、また胃潰瘍じゃないだろうね」  つい先日胃に穴をあけたばかりで、こちらこそ見舞いだのなんだのと気を遣ったのだ。 『いや、違う。このあいだ撮った映画のディスクがな、――――非売品なんだが、送っておいたから、もう届いたかと気になってな』 「ディスク? ああ、DVDのことか。あーっと、……ごめん、不在届が入っていたから、それかも」 『……そうか。それなら、まぁいい。休みの日にでも、友達と観なさい』 「父さんの映画は、友達と観るには不向きだよ。盛り下がる」  悪態を吐くと、もう一度『そうか』と呟かれてしまい、妙な静寂が下りた。思わずため息を吹きかけてしまう。調子が狂う。 「まあ、暇なときに観るから。大体、わざわざ電話を寄越さなくっても、観たあとはいつも報告しているでしょ」 『観るのが遅すぎるんだ』 「忙しいんだよ」 『それに報告ったって、“観たけど”としか言わないだろう。その、“けど”の続きが聞きたいんだよ。感想というやつを』 「感想っていわれても、僕そういうのには疎いからよくわからないよ。映画雑誌には載るんでしょ? それなら、そこに書かれている批評を読んだほうがよほど為になるんじゃない?」 『だから、お前の、感想が、聞きたいんだ』  ひとつひとつの言葉を区切りながら焦れたようにどやされ、だんだんと面倒くさくなってくる。頭を掻いて、遊ばせていたつま先でくるぶしを掻く。手持ち無沙汰に電話にうっすら積もった埃を指で払う。 「とりあえずは観るから。じゃあ、もう切るよ」 『――――志都子さんが、会いたがっているぞ。今度、一緒に食事でもどうだ』  離しかけていた受話器をそっと耳に戻す。 「……日取りが決まったら、教えて」 『ああ。ありがとう。じゃあ、また……』  父のほっとしたような声色が耳にこびりつく。僕はしばらく電話台の前で放心していた。離れているからこそ気付く変化なのだろうか。つい最近の記憶にあるよりずっと父は弱く、そして老いて丸くなっていた。  リビングに戻り、放り投げてあった不在届を指でつまんだ。裏表を眺め、差出人の名前に苦笑する。 「秋永誠一郎、か。まったく、格好つけたがりなのは相変わらずだな」  本名ではなく、監督名で映画を送るところが父らしい。そして、そんな恰好つけたがりなところが、僕と父の似通っている部分なのだとひとり納得した。

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