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夜は錦 2

 泡を濯ぐ水音と、食器を片付ける軽やかな音が静かに流れる。  シーリングライトに濾過された穏やかな光が降りる食卓で食事の後片付けに励む。普段なら面倒くさいだけの作業なのに、どうしてか気分が良い。  ごちそうになったお礼に僕が食器を洗い、コクヨーくんがそれを濯いで水切り籠に置いていく。はじめは、当たり前のように手伝おうとする彼を制したのだが、『紅茶の茶葉を蒸らしているあいだヒマなので』とやんわり断られてしまった。大人しく言葉に甘えて座っていればいいものを、じっとしているのも退屈なのだろう。彼の可愛がっているウサギも、すっかり小屋で寝入ってしまっている。 「もうすぐ冬休みだね。二十三日からでしょ?」 「あ、うん。……バイトします。短期の」 「そっかー。どんな?」 「たぶん、飲食店。洗ったり、盛り付けたり、そういうやつ」 「そっかー。がんばってね」 「んー」  間延びした相槌から気の抜けた様子が伝わってきて、可笑しかった。おなかがいっぱいになって眠気も差したのだろう。このくらいの年齢の子は、よく食べる。僕もそうだったけれど、夕飯に山盛りのごはんを食べたのにも拘わらず、数時間後には腹の虫が騒いだりする。今ではロースとんかつを一枚食べきれるかどうかも怪しいという体たらくなので、羨望の念を抱かずにはいられない。胃は宝だ。胃こそが全て。胃の強靭さと食事で得られる幸福度指数はイコールで結ばれている。 「アルバイトは、初体験かな?」  なんとなく尋ねると、コクヨーくんはバツが悪そうに視線を逸らして顔を歪めた。 「一度、夏休みに浅倉とコンビニのアルバイトをしたことがあるんだけど……」 「へぇ」 「おれ、口下手だし、うまく話せないからしどろもどろになっちゃって。クレームが来て、店長にも怒られて、すぐ……辞めちゃった」  哀しそうに、真っ白の皿を籠に収めて遠い目をする。 「浅倉がかばってくれたけど、それもなんだか情けなくってさ」 「うん、……分かるよ」  哀しい、いやな思い出なら見つめないでほしいと願ってしまう。我ながら過保護すぎるな、とは思うけれど、自分のことのように胸が痛んだ。まだ知り合っていない頃の出来事とはいえ、それを慰めてあげられなかったことにすら憤りを感じてしまう。出逢っていなかった時間がもったいない。遡って頭を撫でてあげられたらどれほど良いだろう。 「次のバイトは、もっとがんばらないと」  己に言い聞かせるように苦笑する。無理をしている表情だった。 「だいじょうぶだよ。きっと」  無責任にそう伝えることしかできない。過去でも現在でも、目の届かぬところで社会に入り賃金を得ようとする彼に僕が手助けしてあげられることは、きっと少ない。それでもコクヨーくんは安心したように瞳だけで微笑んだ。  臆病な彼がそうまでしてアルバイトをする理由とはなんだろう。少しでも小遣いの足しにしたいのか、それとも自立心からくるものなのだろうか。もしも欲しいゲームでもあるのならば、それこそクリスマスにプレゼントするのにと歯痒くなる。 「コクヨーくんはさ、高校を卒業したら進学するの?」 「え? あー、調理師学校に行こうと思ってる。思っています」  一瞬、熱心な手が止まる。あまりにももごもごと不明瞭に、申し訳なさそうに言うものだから、こちらの方が大いに戸惑ってしまう。 「どうしてそんなに自信なさげなの? 合っていると思うよ。コクヨーくんに」  実際、彼の作る料理はおいしい。キッチンに立つ姿は得意気で、楽し気で、心の底から料理を作る事が好きなのだと窺える。そして性に合っているのだ。それなのに……。 「いやー、うーん」  煮え切らない。彼が手を止めてしまっているのでシンクには皿が溜まるばかりだ。仕方がないので、僕が濯ぎも担当する。 「料理が好きだからこそ、それを仕事にした時にどうなるんだろうって」 「どう、とは?」 「好き勝手に作るのが楽しいし、もっといろんなものを作りたいって思える。でも、もしも大好きな料理のことで行き詰まったり悩んだりして、万が一嫌いにでもなったりしたら……」 「ああ、そういうこと」  趣味を仕事にすると、嫌気が差した時に人生の楽しみを一つ失ってしまうことになる。その事を言っているのだろう。突き進むべきか、それとも趣味に留めて、思うがまま好きに愛で遊ぶのか。 「僕は、趣味が仕事になればしあわせだと思うよ。毎日毎日、好きなことで頭をいっぱいにして、そういうのってなかなか出来ないことだからさ。さして好きでもないことで毎日神経をすり減らすより、よっぽどいいよ」  僕にこれといった趣味がないから、簡単にそう言えるのだろうか。  彼の躊躇いを和らげるべく言葉を連ねるのだけど、自分でも首を傾げてしまう。人の考えなんて千差万別だ。鹿爪らしく宣うも、自分自身、いまいち自信がもてない。 「……秋津さんの将来の夢は、何でしたか?」 「僕? 僕はねえ、小学生のころはうどん屋さんになりたかったよ」 「う、うどん? それはまた……珍しいですね」 「世界一うどんが好きだったんだよ」  はにかむとコクヨーくんもかすかな声で笑ってくれた。食器洗いの連携が再開される。もうそろそろ作業も終わりそうだ。すこし、寂しく思える。 「中学生のころは、考古学者だとか民俗学者に憧れていたんだよ。考古学と民俗学の意味も分かっていないのに、可笑しいよね」  思春期の精神構造はふつうではない。その時期こそが、ある意味で唯一の“解放”だったのだけれど。 「高校に入ってからは、どうだったかなあ、普通に公務員になれればいいかなあって感じだったかな。まだ将来の事を直視したくなくて、千沙と一緒に大学に行ってふらふらしている内にうっかり卒業しちゃって、懇意にしていたOBに斡旋してもらって、会計事務所の面接に行って、採用されて、うん、今に至ります」  我ながら順風満帆だ。ありがたい運びだけれど、無謀で熱い夢に焦がれたかったと言えばうそになる。趣味ばかり追い詰める父に嫌悪しつつ、……憧れていたのか。 「そうですか……」 「あ、もしかして、調理師学校に通うから、それで飲食店のアルバイトを始めるの?」 「あー、まあそれもありますけど……」  洗い物もすっかり終わってしまった。コクヨーくんはシンクに残った泡を流して、キュッと蛇口を締める。それと同時に、曖昧な調子で会話も閉められてしまった。すこし引っかかる。 「あ、ありがとうございました。おかげさまで助かりました。紅茶、淹れるね」 「え、ああ、いやいや。僕の方こそごちそうになって。ありがとう」  律儀に礼をする僕を見止め、コクヨーくんは言葉にせずほのかに瞳を細めて笑った。 「――――、」  そういう細かな仕草に劣情を掻き立てられる。十七歳。大人と子供の狭間。ふいに見せる大人びた表情と、合間に揺れる子供の顔。くらくらする。罪を犯している。僕はこの子に、常に罪を犯している。  これから何度も転んで傷つきながらも社会経験を積んでいくであろう“子供”の終焉を迎える彼の背中を見つめながら、罪を恐れてなどいない自分に気が付いた。腹を括ったとでも言うべきか。いたいけな将来を危ぶんでいた懊悩が遠く雲散していくような気さえしていた。  転んで傷ついた彼をやさしく抱き止められる自分でいたい。転ぶ前に、その腕をつかんで引き上げられる自分でありたい。 「コクヨーくん、おいで」  両手を広げると彼はしばし逡巡し、ティーポットを置いて僕の前で直立する。決して自分から凭れかかることはしない。そんな彼のいじらしい性分に微笑み、僕の方から半歩踏み出して未成年の細い体を抱きしめた。  コクヨーくんが愛おしい、これからも慈しみたい。大切に、自分の手で、自分が幸せにしてやりたい。  それでいい。それでいいじゃないか。  ぽっと、心に明かりが灯る。あとはそれを追いかけ、引き寄せるだけだ。  冬はあたたかい。珍しく、はじめて、あたたかい冬だった。

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