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エンヴィー・ラッシュ 1
言葉に出さずとも聖夜は共に過ごすのだと識っていた。暗黙の了解だった。
互いの好意は既に筒抜けで、それを明確な言葉にしない揺蕩いの期間が途方もなく蓄積したが、僕は最後の覚悟を決め終わり、熱情は穏やかな海のように凪いでいる。
コクヨーくんを見つめた時、いつだって彼は唇を引き結んで瞳を揺らす。そのひたむきな鉄壁の奥にある、どろどろと渦巻く濃厚な恋情の気に中てられ、僕は毎度の儀式のように、何度でも忠実に息苦しくなる。
長年使い続けているナイルの庭を軽く振り掛けて家を出た。香水を振ると、少し気持ちが落ち着く。毎日の欠かさぬ習慣は精神安定にもってこいだ。
今にも地平線に沈んでしまいそうな夕陽が寝不足の目に染みて、思わず手を翳した。
西は燃えるように赤く、東はその猛烈な赤を追うようにじわじわと濃紺が棚引いていた。絶景を目に焼き付けて、車を出す前にメールで一報を入れる。この恋人めいたやり取りさえ面映ゆい。
甘やかで息苦しい関係が一つの終着へと向かっていることを、僕は静かに、受け入れるように感じていた。
「お疲れ様、大変だったね」
「ああ、いえ、はい、まあ……」
もごもごと曖昧なに返しながら、すっかり慣れた様子で助手席へするりと乗り込むコクヨーくんに、月並みの労いの言葉をかける。彼はすこし前からアルバイトを始めていた。コクヨーくんが選んだバイトは、飲食店の厨房だ。イタリアンのローカルチェーン店で、特に女性客からの評判がすこぶる良い。
「どうだった? 忙しかった?」
「んー、すごく忙しいってわけでもなかったかな。平日はランチを食べにくるお客さんでごった返すけど」
「そっかー、オフィス街にあるもんね、お店」
シートベルトを締めるのを見届け、車を発進させる。横目でちらりと様子を見ると、体力面ではなく精神的な疲労が窺えた。
『明日、バイトの初出勤なんです』
と、泣きそうな声で電話がかかってきた日には、思わず僕の方がガチガチに緊張した。そして彼以上に不安に陥り、自分の仕事をしながらも忙しなく時計を気にしていた。過保護と笑われるかもしれないが、なにせ彼は人生初めてのアルバイトで気の毒な目に合っている。それがトラウマになっていなければいいけど、そしてまた同じような目に合わなければいいけど、なんて親のような気持ちでいたのだ。「あの、秋津さん……」
「ん?」
「面接、きちんと応答ができたの、秋津さんのおかげです。あ、その、ありがとうございました」
「うん?」
「あ、面接の練習、してくれたじゃないですか」
ああ、と僕は苦笑する。あたたかい吉田家で鍋をご馳走になった夜に、僕は彼と向かい合って面接の予行練習をしたのだ。
面接官役の僕の演技たるや、凄まじいものがあった。最初こそ真面目に当たり障りのない質問をしていたのだが、正座をしてしどろもどろに応答するコクヨーくんの姿を目の当たりにして、ついつい嗜虐心を煽られた。それまで鹿爪らしくしていたのだが、椅子に深く腰掛け、悪戯に足を組んでみたりする。ふてぶてしく頬杖を突いて、じとりと見下すように視線で少年を嬲った。臆する彼に、
『世の中には、こんな面接もあるんだよ』
とわけの分からない事を言い繕いながら、卑猥な質疑を投げかける。もはや面接でもなんでもない。ただのセクハラだ。実際の面接でこのような対応をすれば間違いなくニュースに取り上げられ、社会的制裁を受けるだろう。そんな暗い未来を背負った、如何わしい質問で矢継ぎ早に攻め立てた。が、最終的にコクヨーくんが半べそになってしまったので慌てて謝罪したのは言うまでもない。
僕の改悛など素知らぬ顔で、コクヨーくんは何度目かになる暗いため息を吐いた。
「……厨房の仕事だけ覚えるのかと思ってたけど、忙しいときにはホールにも出ないといけないらしくて、焦った。おれ、接客なんて本当に無理なんだけど……」
「そうなの? それは、うん、大変そうだね」
接客をするコクヨーくん。申し訳ないが想像が付かない。
「大丈夫だよ。要は慣れだから、きっとそのうち、なんでもないって思えるようになれるよ」
背もたれに体重をかけてぐったりとうなだれる彼に、ありふれた慰めの言葉をかける。
「他の従業員のひとは、どう? 上手くやっていけそう?」
「人は、うん、だいじょうぶ。みんな優しいです。まかないも美味かった」
「まかない! いいなあ、憧れるな。ちなみに、何を食べたの?」
「試作品の、かぼちゃクリームのミルクレープと、ボロネーゼ」
いいなぁと漏らせば、コクヨーくんは楽しそうに笑った。その笑顔を見てホッと胸をなで下ろす。人間関係が良ければ、あとは日々の仕事をこつこつと熟して慣れていくだけだ。彼を取り巻く人がやさしいのなら、僕もうれしい。
「コクヨーくんなら大丈夫だよ。僕が保証する」
彼は本当に良い子なのだ。本来、誰からも愛されるべき存在なのだ。
コクヨーくんは照れ臭そうにはにかみ、がんばりますと小さく漏らした。『頑張らなくても、君なら絶対に大丈夫だよ』と伝えたかったのだけれど、未来のために頑張ろうと決意した彼にそう告げるのは、すこし違うような気がした。頑張らなくて良いなんていう言葉は、彼の心が疲弊して、自分の力だけじゃもう歩けないとうなだれた時にだけ、ようやくかけるべき言葉なのだと信じている。
彼はきちんと前進している。少しずつだけれど、自分の足で歩いている。なんていじらしくて、なんて誇らしいんだろう。胸の奥から喉元へ、熱くてきらきらしたものが押し寄せてくる。胸に押し込めた言葉の代わりに、例えば美しい花や宝石などでも零れだすのであれば、もっとうまく感情を伝えられるのだろうか。心底コクヨーくんの事を想って悶々としているのだけれど、その思慮を、僕は上手く伝えられているだろうか。その素振りに、気付いて貰えているだろうか。
押し黙る僕を訝しみながら、コクヨーくんは努めて明るい顔をして見せる。
「あの、これからの予定は……?」
「そうだね、お店を適当に見て回って、それから夕飯を食べに行こう。実はね、“特別なディナー”の予約をしているんだ」
堰を切りそうな感情を押し込める。
きっと記念の日になるだろうからと、実は前もってディナーを予約していたのだ。我ながら、気持ちが悪いほどに浮かれていると思う。浮ついた僕とは対照的に、コクヨーくんの表情は一瞬で曇ってしまった。もじ、と服の裾を構う。
「でも俺、こんな恰好ですけど……」
パーカー姿の彼は申し訳なさそうに頭を垂れた。ぐるぐるに巻いたマフラーに口元が隠れ、拗ねているようにも見える。
「大丈夫、堅苦しいところじゃないし、ドレスコードも必要ないよ」
「でも……」
「大丈夫だって。君が想像しているような、高級なところじゃないよ。本当にフランクな店だから気にしないで。いつもみたいに気楽に好きなもの食べてよ。僕はね、コクヨーくんが食事をしている姿、けっこう気に入ってるんだ」
本心を告げると、どうしたらいいのか分からないというようにコクヨーくんは眉尻を下げてより一層頭を垂れた。もはや顔の半分はマフラーに埋もれている。
「だいじょうぶだよ。今日は僕に着いてきて。そして、できれば僕に従ってほしいな」
不安げな瞳が揺れる。その躊躇に泳ぐ瞳の裏側に、熱いとろ火のような期待が込められていることには気が付いていた。緊張に強張る少年を横目に見止めながら、ゆっくりとアクセルを踏み込む。
車窓は夜色に凍てついている。切れ切れの雲間に乳白の月がふんわりと浮かんで、きっと上空から見たら穏やかな月光のスポットライトに照らされるミニチュアカーのように見えるだろう。玩具みたいな車の中で、僕たちは固まって寄り添う。ぎこちない笑顔に熱い息。すこしの空腹と発汗。
いい夜だ。好い、夜になりそうだ。
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