32 / 39

エンヴィー・ラッシュ 2

 海面に月の光が砕けている。夜の海に気を取られていたコクヨーくんはやおら顔を上げ、不思議そうに辺りを見回す。その様子は僕を上機嫌にさせる。 「そろそろ、どこへ向かっているのか気付いたかな?」 「ティファニー……」  初めてのお泊まりの朝、二人で来た喫茶ティファニー。記憶もまだ新しく、あの日の陽光を微かに思い起こさせる。  小さな駐車場にはすでに車が数台停まっていた。おそらく、僕のような常連がクリスマス限定の特別メニューを目当てにやって来たのだろう。元々車通りの少ない道だ。緩いブレーキをかけてから円を描くようにして駐車すると、僕は車から降りて半歩遅れて着いてくるコクヨーくんに笑んだ。 「高級なレストランも良いけれど、僕はやっぱり、特別な日はここの料理を食べたいと思うんだけど、どうかな? それとも、ほかの物が食べたい?」 「とんでもないっ!」  ぶんぶんと音がしそうなほど、コクヨーくんは何度も首を横に振る。その動作に合わせて彼の黒いマフラーの端がでんでん太鼓のように揺れて笑いを誘った。 「君なら、そう言ってくれると思ったよ」 「俺も、秋津さんが“特別なディナー”って言った時、なんとなくここなんじゃないかなって思っていました」 「さすが、読心術界の貴公子ヴィルグルフト様だね!」 「えっ、あ、その設定は、俺ちょっと分かんないです……」 「あ、あれ? 違ったっけ?」  難しい。てっきり便乗してくれるのかと思っていたが、案外彼の中での設定や独自のルールは複雑なようで、僕のような一般人がおいそれと立ち入れる領域の物ではないらしい。クククとほくそ笑みながら摩訶不思議な言葉を連ねてくる様を想像していたのだが、残念だ。  しゅんと肩を落とす僕を、コクヨーくんは寒風に吹かれながらじっと見つめている。 「なに、どうかしたのかな?」 「ああ、いや……」  そんなに大きくはない瞳をめいいっぱい見張っていたかと思えば、何かを思い直したように、妙に赤い顔を背けられる。うれしそうに口の中でもごもごと言葉を紡ぐくせに、それは音にはならない。うれしい気持ちを伝えて貰えない。すこし寂しい。 「……がとう、秋津さん」 「え? なに?」  冬風にさらわれてしまった言葉を再度問うが、コクヨーくんはいいえと笑って瞳をとろけさせた。 「なんでもないです。……寒いですね」  そう言われると、急激に冬の寒さを思い出す。車内の暖房をふんだんに吸っていたはずのコートもすっかり冷えてしまった。ふる、と身震いする。 「さ、何はともあれ腹ごしらえだね」 「はい!」  きらきらとした瞳で見上げられる。嬉しくなる。ああ、今この瞬間に彼を一番近くで慈しんでいるのは、僕なのだ。僕だけなのだ。

ともだちにシェアしよう!