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エンヴィー・ラッシュ 3
特別メニューというだけあって、マスターがここぞとばかりに張り切って作り上げたコース料理は丹念な余韻をもって僕たちの貪欲な胃袋を満たしてくれた。
コートにたっぷりと珈琲の湯気を染み込ませてから、何をするわけでもなく、ぼんやりと夜に溶ける景色を掻き分けるようにしてのろのろと帰路に着いた。やはり彼は何も言わないし、僕も何も告げず、ごく当たり前のようにコクヨーくんを家に招いた。不思議な気持ちだ。まるで聖夜の独特の雰囲気に追い立てられるかのようにテレビも点けず、無言でマグカップを弄る。
彼が僕の家に来るのはこれで二度目だが、部屋に入る瞬間、その瞳がちらりとソファを見止めたのに気が付いた。思い出している。いつかの淫らな行いを思い出している。それがたまらなく僕の心を騒めかせた。劣情を抑えながら戸惑う彼をソファに座らせて、僕は床に座る。居心地が悪そうに浅く腰掛ける彼を下から見上げ、伏せた瞳をこっそりのぞき込む。つくづく自分でもいやな奴だと思う。けれど、止められないのだ。優しくしたくて、暴きたくて、しかしそれを抑制しながら、いたいけな彼のもどかしい劣情を間近でじっくりと余すところなく見つめていたいのだ。
華やいだショッピングモールや駅前通りとは違い、自室から見える景色はひたすらに蒼かった。イルミネーションも街灯の明かりもここからでは何も見えない。輪郭を失った遠くの木々や、少し青みがかった夜空に褪せた外灯。どこまでも澄んだ夜の静けさが熱い鼓動を煽る。いつの間にか高く昇っていた月が、眼下の喧騒など素知らぬ顔でぷかぷかと泳いでいる。
「大樹さんは、家でお留守番?」
視線を向けるとびくんと肩が揺れた。世間話をもたらされたことにほっと一安心している様子が手に取るようにわかった。
「あ、と……、会社のひとと飲み会らしい。らしいです」
「それは何より。一人で寂しがっているんじゃないかと思って、すこし申し訳ないと思っていたんだけど」
さすがにコクヨーくんも父親と二人で聖夜を祝う歳ではあるまいが、一人息子を奪ってしまったような、妙な罪悪感を抱いていた。杞憂で何よりだ。
「浅倉くんは?」
「……彼女が、できたから」
頷く。それならばきっと今頃はデート中だろう。
「もしかして、例の? あの、浅倉くんへのプレゼントを君と一緒に選んだという」
今度はコクヨーくんが頷いた。
「そうです、その彼女です。この間浅倉の誕生日だったんだけど、プレゼントを渡して、告白して、なんかそういう感じで……、はい」
「はあん、なるほど、青春だね」
あのつっけんどんな少年がどうして女の子にモテるのかよく分からないけれど、ああいった甘さの欠片も見せないような姿勢が女心をくすぐるのかもしれない。雰囲気も実際の口調もクールそのものだが、しかしコクヨーくんと一緒にいる時の彼は限りなく年相応だった。電車に揺られながら心情を吐露する姿は、感情の種類は違えど、同じ一人を案ずる者同士、真に通ずる部分があったことは間違いない。
「浅倉くんは、……いい恋人になりそうだね」
「ふふ、想像できないけどね。去年のクリスマスは、浅倉と二人で遊んだんだけどなあ。……あ、そういえば、千沙さんはどう? どうですか? この間メールした時には、忙しいと言っていたけど」
「千沙も今頃はデート中でしょ。クリスマス前はネイルのオーダーが山のように入るって言ってたし、頑張ってそれを片付けて、ようやくデートに漕ぎつけたんじゃないかな。ずっと片思いしていた人と大恋愛中らしいし、千沙らしいというか、なんというか」
苦笑を零すと、コクヨーくんもへたくそな相槌を打ちながらカップに息を吹きかけて目尻を下げる。やわらかい笑みだ。
「頑張っているんですね、千沙さん。すごいなあ」
「……そうだね。本当に、よく頑張っているよ」
やさしい心で千沙を慮る少年の髪を梳く。恥ずかしそうに身を引く彼の頬を嫌がらせに撫でさすり声に出して笑うと、さすがに不服そうな表情をされた。
彼の好きなゲームも漫画もない部屋だ。しばし無言の間が続き退屈させてはいないだろうかと危惧したが、彼の唇がほんの少し、分からないほどにゆるく弧を描いていたので、それはそれで沈黙を楽しんでいるらしい。沈黙を苦と思わない関係こそが良好な関係だとよく耳にするが、今の状態がまさにそれなのだろうか。沈黙さえ心地よい。視線も合わないけれど、それでも目の前に“彼がいる”というだけで不思議と満たされるのだ。
上半身を軽く背もたれに凭れかからせ、ゆったりと体の力を抜いて寛ぐコクヨーくんの姿に、おや、と感心する。いつもは緊張やら警戒やらでガチガチに体を強張らせて縮こまっていると言うのに。
もちろん目の前で心からリラックスしてくれるのは嬉しい。嬉しいのだけれど――――。
「少し、男としての自信を失くしてしまうなあ」
「ナ、何の話です……」
裏返る声に苦笑して、いつかの時にキャンドルを入れていた引き出しから小さな包みを取り出した。
「つまらないものだけれど、クリスマスプレゼントだよ。どうぞ、受け取ってほしいな」
小奇麗にラッピングされたそれを恭しく差し出すと、コクヨーくんの表情がにわかに曇った。
「あ、お、おれ、何も持ってきてない……」
「うん。僕は一方的に君へ贈り物をするつもりだったから、それでいいんだよ。交換したいんじゃない、君に奉仕したいんだ」
指でちょいちょいと包みを彼の方へ押しやると、困ったようにそれを手に取り上げる。用意していたプレゼントが彼の手の中にあるというだけですでにうれしい。
コクヨーくんはしげしげと包みを眺めたのち、無言で『開けていいか』と問うてくる。僕はそれに笑って応え、ジェスチャーでどうぞと告げた。彼の人差し指の爪先が、クリスマスカラーのカラフルなテープを切る瞬間を見守る。
「どうかな。気に入って貰えたのならうれしいけど」
コクヨーくんのために用意していたプレゼントは、シンプルな腕時計だった。彼の手首に似合いそうな、細い革ベルト。いたって普通の、余計な装飾など一つとしてない、時を刻むだけのコンパクトな装置。
「これなら、君がこれから先、就職活動の時期に差し掛かっても、例えばフォーマルな席でも使えるだろうから」
「あ、あ、あ、ありがとう、ございます。あの、でも、でもこれ、高価なものなのでは……?」
「そうでもないよ。付けてあげようか」
ケースから時計を摘み上げ、大人しく手を差し出したコクヨーくんのパーカーの袖をまくって細い手首に巻き付ける。手首の内側はとても白く、薄い皮膚の下に青い血管が這っていて、いのちの証明を見せつけられる。それに見惚れていると、手首から少し昇ったところに火傷の痕が刻まれていることに気付いた。
「どうしたの、これ」
痕を指でなぞると、
「今日のバイト中に、少し、フライパンが当たって……」
と小さく弁明される。
「ふうん、気を付けないとね。痛い?」
「あ、いや、全然だいじょうぶ。軟膏も塗ってもらった」
「そっか、それならよかった。……うん、サイズも丁度良さそうだね」
バツが悪そうな彼の手首に、僕が選んだ時計が慎ましやかに馴染む。僕たちはどう会話を続けていいのか迷い、暫く無言で時を刻み続ける時計を見下ろしていた。
これから先、彼は僕が贈った腕時計を支度の最後に身に着け、それを一瞥して電車に乗り込む。時計に倣い行動する。まるで行動を支配するようだ。“時計を贈る”という行為の裏には、そういう意図も少なからずあるのではないのだろうか。自覚せずとも、いわば“時”を縛りたい願望が込められているのではないのだろうか。
「……秋津さん、ありがとうございます。本当に、うれしいです」
はにかむ彼に、愛おしさがこみ上げる。間抜けなくらいに破顔すると、コクヨーくんは僕に掴まれたままの手首を庇うかのように自らの胸元に引き寄せた。
「……ッ、な、なんか今日の秋津さん、へ、変じゃないですか?」
「そう?」
「そう、ですよ。あ、なんか、ふわふわして、変な感じがする……」
赤い顔がくしゃりと歪む。警戒するようにソファの上でさっと膝を抱えられる。野生の勘なのか、本能で危険を感じたのか。怯える小動物のような彼に手を伸ばし、両手首を掬うようにして握った。コクヨーくんの小指がぴくんと跳ねる。
「かわいいよ」
「はい? はい、え、あの……?」
「外見だとか仕草だとか、そんなことだけじゃなくて」
ぐいと身を乗り出すと、同じくらい距離を取られる。しかし相変わらず腕は僕に取られたままなので大した距離は取れない。まるで突っぱねるような恰好のまま、コクヨーくんは泣きそうな顔をのけ反らせた。首までまっ赤だ。
「僕が、今夜どうして君と会ったのか、どうして君を家に連れて来たのか、意味は分かるよね」
「え……、っと」
極限の混乱に晒され、突然の尋問に忙しなく瞳を泳がせる。
「あっ、ぁの、あの……っ」
握られたままの手が、緊張をほぐすようにグーとパーを繰り返す。ぐ、と力を入れて握り直すと、それはパーの形のまま動きを止めた。
「コクヨーくんはさ、少し前にこの場所で、僕のことを好きだと言ってくれたね。その気持ちは、今も変わらない? まだ、僕の事を想ってくれている?」
必死に背けていた顔を少しだけこちらへ向け、小さく頷く。まるで叱られている子供のように、あるいは悪いことを仕出かしてしまったかのような、ひどく頼りなげで疚しさを感じさせる頷きだった。
「……そう。たとえば僕が君と同じ気持ちで、君と恋人になりたいと思っていると言ったら、君は、春斗くんはどうする?」
ふらふらとしていた目線が、弾かれたように僕の熱い瞳とかち合う。驚きに開いた唇の間に見えた歯の潔白さに、泣きたいくらいの劣情を覚えた。
「そ、……どうする、と言われましても、おれは、どうしたら……」
「受け容れてくれる? いいよって、言ってくれるかな?」
く、と引いた腕が強張って震えている。パーのまま震える指先が緊張に白む。彼のこめかみに浮いた汗に最上級の動揺を感じ取り、更に彼の腕を引いて熱い体を抱きしめた。
「確信している。僕は君のことが、心底好きだよ」
服越しにさえ分かるほど汗ばむコクヨーくんを好ましく思う。ぴんと張っていた指が僕の言葉に合わせてびくんと痙攣し、やがてゆっくりと弛緩する。弛緩して垂れ下がった先にある僕の背に宛がわれる感触がした。火傷しそうな耳たぶに頬ずりをする。
「いろいろと順序が逆になってしまったし、君をずいぶん悩ませたと思うけれど、僕はもう覚悟を決めたよ。この先もずっと一緒にいたいと思っている」
髪を梳いて、耳を撫で、頬を手で擽るとようやく面が上げられる。熱に浮かされた顔は湯気でも立ち昇らせそうな勢いで、いっそ痛々しい。瞳も唇も僅かに充血していて、紅潮の度合いを知った。
「大丈夫? 熱そうだね」
部屋自体も、急速に効いてきた暖房で暑いくらいだ。それとも、僕自身も発熱しているのだろうか。彼のように赤い顔を晒しているのだろうか。てのひらで撫でるように彼の汗を拭い、冬を忘れる。熱帯夜のような、じっとりとした熱気がぐるぐると渦巻いている。
「……春斗くん、今夜、門限はあるのかな?」
指先で撫でた唇が火照っている。
「帰さないつもりだけど、いいよね?」
まんまるに見開かれた瞳をじっくりと目に焼き付けてから、ゆっくりと唇を重ねる。彼の唇が受け入れるように小さく開いたのをうれしく思った。
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