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ファイナル・ビュー 1

 慌ただしい師走は、僕たちの傍を素知らぬ顔で駆け抜けていた。例年以上に冷え込んだ元日の朝八時、身支度を整えて家を出る。相も変わらず雪など降らぬ土地だ。張りつめた糸のように冷え切った外気に頬を撫でられながら、僕とコクヨーくんは神社へと向かっていた。  黒いマフラーを靡かせて、いつものように半歩後ろを歩くコクヨーくんの口元から、ほんわり、ほんわり、白い息が漏れる。彼の呼吸の姿を知る。生命の証しを可視化できる冬、息が凍るなんて当たり前のことなのに、どうしてか奇跡のように思えるのだ。 「ひと、多いね」  ぽあんと命を吐きながらコクヨーくんがはにかむ。通りを歩けばどこかの家から煮しめの香りが漂い来る。晴れ着の少女とすれ違う。耳慣れぬ下駄の音が鳴る。どの瞬間を切り取っても偏に元旦そのもので、脱皮した年の特別感に、気持ちがふわふわと舞い上がる。大晦日の追いやられる感覚とはまた違う、どこか浮ついた切迫感。  コクヨーくんとは大晦日、元旦と僕の家で過ごしたのだが、我々の仲は一進一退という様相で、どちらかが遠慮をすれば、どちらかが一歩を踏み出して互いを引き寄せあうような関係を続けていた。聖夜、からだを交わらせて気持ちを通わせたはずなのだけれど、いまいちどこか煮え切らない。しかしそれがまたむず痒く、僕をいつまでも新鮮な気持ちにさせるのであった。 『一緒に、初詣に行こう。行きま、せんか』  と、明け方の少し冷たい布団の中で顔も見ずに提案された時は、薄情ながら、寒いから少し面倒くさいなあと思ったものだけれど、実際こうして早朝の寒空の中を歩いてみればなんてことはない。清々しくさえ思う。歩いて行ける距離に大きい神社があってよかった。さすがに、元旦の早朝から車を出す気にはなれない。国道も混む上に、神社の駐車場なんてすぐに満車になってしまう。車は便利だが、あんがいそれと同じくらいに不便も多いのだ。  木々に囲まれた長い長い石段を登りながら他愛もない談笑を交わしていると、ふいに目の前が翳った。足元の苔むした段差ばかりに目をやっていたのだが、翳りに釣られて顔を上げると見知った顔がにやりと僕を見下ろしていた。 「父さん……?」 「や、誠二郎、おめでとう。おまえが初参りなんて珍しいじゃないか」  気取ったようなハットを被った初老の男性。紛れもない、僕の父である秋津京助だ。咄嗟に苦い顔を背けるも、鈴を振るような声がつむじに落とされて動きが止まる。 「お久しぶりです、誠二郎さん。顔が見られてうれしいですわ」  舞台女優をしている義母が美しく微笑んでいた。まるで演劇の最中のように、着物の袖で赤い唇を隠してころころと笑う姿やその口調、凛とした顔立ちが神社の土臭い冷気に引き立てられ妖しい魅力を放っている。  半歩後ろで僕の袖をこっそり掴みながら戸惑っているコクヨーくんに、「僕の父と義母さん」と耳打ちすると、一拍置いて目を見張られた。明らかに志都子さんにドギマギしていて、はじめて千沙を紹介した時のことを思い出した。美人に弱いらしい。 「お久しぶりです、志都子さん。えっと、この子は、連れの春斗くん。勉強を見たりしている子なんです」 「あら、そうなんですか。ふふ、はじめまして、春斗くん」 「はっ、初めまして、吉田春斗です。あの、あの、あ、秋津さんにはいつもお世話になっています……」  項垂れるような格好で礼をする姿も既視感がある。彼のぎくしゃくとした動作に気をよくした父が、よく通る声で笑い声を漏らした。周囲の視線を浴びる。これだからこの男は……。 「ずいぶん可愛い友達ができたんだな。誠二郎は屁理屈ばかり捏ねる癖があるが、勉強だけは人一倍得意なんだ。存分に使ってくれてかまわないからね」  父が冗談めかして笑い、コクヨーくんの肩を二、三度叩いた。小さな体ががくがく揺れる。 「ちょっと、いい加減なこと言うのやめてくれる? 勉強以外だってちゃんとやっているよ」 「うどんを食べながら大号泣していたこと、今でも覚えているんだがな」 「それは子供のころの話でしょう。今はちゃんと一汁三菜を心がけて……」  売り言葉に買い言葉で言い争っていると、黙って成り行きを見守っていたコクヨーくんと志都子さんが同時に吹き出して笑い、ハッと我に返って頭を掻いた。どうも、父と話していると調子が狂ってしまう。 「はは、相変わらずで安心したよ。今度はサイパンで長期撮影があるからまた暫く会えなくなると思うけど、しっかり、健康的に生活していくんだぞ」  一方的にそう告げると父はハットを被り直した。売れぬ映画監督だというのに、いちいち仕草が役者めいていて癇に障る。悔しいけれどその恰好が様になっているのは、日々プロの俳優たちを間近で見続けているからだろうか。 「わかってるよ。そっちも、志都子さんに迷惑かけないようにね」 「大丈夫だ。……では、吉田くん。誠二郎が堕落しないように見張っていてくれると助かるよ」 「あっ、あぅ、はい!」  コクヨーくんは身体を跳ねさせながら大きな声で返事をした。見張られるのか、僕は。 「春斗くん、誠二郎さん。またね。……照れ隠しになんのかんの言っておられるけれど、京助さんは毎日誠二郎さんのことを気にかけていらっしゃいますからね」  優雅に一礼する志都子さんは指先まで美しい。きっと、これからもっと飛躍していくのではないのだろうか。母が叶えられなかった夢を、この人が果てまで追いかけてくれるのならば、喜んで心の底から彼女を応援したいと思う。  仲良く腕を組んで石段を下りていく二人の背を見守りながら、僕とコクヨーくんはしばらくぼんやりとしていた。まるで映画のラストシーンのように、父と志都子さんは美しく、苔むした新緑の神社に絵画然と溶け込んでいた。ふう、と息を漏らす。 「ごめんね、父がうるさくて」 「あ、いえ。……やっぱり、秋津さんと顔立ちが似ていたね。目元とか、結構似てた。似てましたよ」 「えっ、そうかな……」  思わず目元をぺたぺたと触っていると、彼の口元が綻んだ。 「そうだよ。それにしても海外なんて、すごいな。お父さん、なんて名前? 映画の」 「監督名? ……秋永誠一郎だよ」  せいいちろう、と呟き、コクヨーくんは何度か頷いた。 「なるほど。それで、秋津さんは“誠二郎”さんなんだ。一人っ子なのに、どうして“二”の文字が使われているんだろうと思っていたけど、そういうわけか……」  また一つ、秋津さんのことを知れた。と喜ぶ彼に、僕は照れくさいものを感じた。彼の唇から咽喉から、僕の名前が飛び出たことに、こころに灯がともったような熱さを感じたのだ。たかが名前を呼ばれたくらいで、体を繋いだあとでもこんなに動揺してしまう。  体を密着させるようにふたり並んで、たくさんの参拝客に見られないよう、こっそり手を繋いで長い長い石段を踏みしめる。ああ、こんなふうに、毎日を一つ一つ愛と共に積み上げていけたのなら、きっとこれ以上ない幸福を得られるのだろう。もう姿が見えない父たちの後ろ姿を思い浮かべながら、そんなことを漠然と考えていた。  二人で境内に並び、お参りをする。覚束ない動作で手を鳴らして瞳を閉じる。 (春斗くんが健康で過ごせますように、うまく進路を選び取れますように、大樹さんも元気でいられますように、金魚とウサギも長生きできますように、志都子さんが舞台女優として大成功しますように。あとは浅倉くんと父さんも、適当に元気でいてくれたらいいかな……)  欲張ってたくさんの願い事を羅列したあと、慌ててもう一つの願い事を付け足した。 (――――春斗くんが、できるだけ長い間、僕のことを好きでいてくれますように)  彼にとって、僕ははじめての親密な人間だ。恋人というよりは、親密な人間。童貞だって捨てたいだろうし、女性とだって付き合ってみたいはずだ。それは良い。それは良いのだ、仕方がない。  それでも、たとえ他の誰かと体を重ねたとしても、心の片隅には僕が居座っていれば良い。たとえ気持ちが大きく離れる時があったとしても、それでも最後には、僕を頼って帰ってきてくれたら良い。――すこし、感傷的になったかもしれない。軽く頭を振って気分を切り替える。 「……さて、君はなにをお願いしたのかな?」  ようやく願い事を切り上げた僕は、隣でえらく真剣に手を合わせていたコクヨーくんに無遠慮なことを聞いてみた。彼はたっぷりと数秒迷った後、 「……我が暗黒神界の領地拡大」  と、口元を覆うほどにぐるぐる巻きにしたマフラーの下で、たぶん笑った。

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