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幸三にとっても、俺にとっても、商品係の女性職員や男性職員にとっても。
──運命の一日が、幕を開けた。
いつも通りの時間に出勤するも、なにやら今日は事務所の空気が違う。女性職員はいつも以上に髪型やメイクに力を入れていて、男性職員も妙にソワソワしている。
おそらく全員、今日から凄腕営業マン兼スーパースター牛丸さんが来ると知っていて、妙な緊張感を持っているのだろう。それはさすがの俺でもどうやら同じらしく、今日はなんだかいつもより足取りが重く感じるくらいで。
小さく息を吐きつつ、俺は自分のデスクへ向かう。椅子に座るも、まだ幸三はおろか、牛丸さんもいないみたいだ。
せめて、何時に来るのかくらい聞いておけば良かったか。つい、そんな後悔をしてしまう。
……いや、考えたって仕方ない。俺はあくまで、幸三の保険。幸三の教え方が悪かった場合にのみ補助をする、アシスト的存在。……今日の俺は、その程度の立ち位置だ。
つまり、焦る必要はない。心持ちも、どうってことないだろう。
それに、いくら牛丸さんが今まで営業しかしてこなかったとは言え、ずっと俺たち商品係が作った資料を使って仕事してきたのだ。なんとなくの要領くらい、牛丸さんは分かっているだろう。
朝礼を終えて、自分のデスクに座って作業を始めること、一時間。……周りの妙な空気に、胃が痛くなってきたその時。
いろいろなことに疎い俺でも、さすがに気付いたのだ。
──事務所内の空気が、変わったのだということを。
突然、事務所の中がザワザワと落ち着きを失う。ザワつく職員の態度に、肌がピリッとなにかを感じた。
小声で盛り上がっていたはずの職員たちが、突然慌ただしく話を始めたのだ。
「おはようございまーす!」
妙な緊迫感を持った商品係の事務所に、幸三の元気な声が響いた。つまり、それが意味することは……。
──ある人物の、入室。
商品係の、事務所入り口。無機質な扉がある方を、俺は思わず見てしまった。
片手を上げて、幸三が笑顔で立っている。
それと、もう一人。幸三とは違う、青年の姿。
「おはようございます」
……一瞬。
本当に、一瞬。
──目が、奪われてしまった。
幸三よりも断然高い背丈で、幸三ほどではないが明るい茶髪。
今まで沢山振りまいてきたであろう完璧な営業スマイルに、背筋がゾワゾワする。
目を細めて、微笑んで立っている幸三じゃない方の男。
──間違いない。
──あれが、凄腕の営業マン。
俺がそう、頭でようやく理解した時──。
「牛丸サンを連れてきたぞ~!」
幸三がそう言い、牛丸さんのことを紹介した。
「「「「「キャーーーッ!」」」」」
突如響く、女性職員の悲鳴に似た歓声。あまりにも凄まじい声量に、かなり本気で吹き飛ばされそうだ。
……しかし、そうか。あの人が、あの……?
「なんだか照れるね」
そう言って照れ笑いを浮かべている、あの人こそが。
「牛丸、章二……っ」
呼ぶわけでもなければ、誰かに聞かせるつもりでもない。
それなのに俺は、思わずその人の名を呟いた。
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