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幸三から視線を外し、俺はしっかりと牛丸さんを見上げた。
「すみません、いきなり大声を出してしまって。……改めまして、子日文一郎です」
「ありがとう。だけど、僕は気にしていないから。君も気にしないで?」
そして再度、イケメンが微笑む。
「子日君のことは竹虎君から聞いていたよ。本当に仲がいいんだね」
この脳内ピーマン野郎が。いったい、どんな話をしたのやら。
もう一度幸三を睨むと、幸三が視線を逸らした。つまりそれが答えか、この野郎。
その間に、牛丸さんも自己紹介をしてくる。
「それじゃあ、改めて。……初めまして、僕は牛丸章二。子日君の同期、竹虎君の後任だよ」
随分丁寧な言い方だ。牛丸さんはそう言って、俺に手を伸ばした。
「隣のデスクになるみたいだから、挨拶として握手をしたいのだけれど。……受けてくれるかな?」
なんだか、幸三と初対面の時に交わした自己紹介を思い出す。俺は慌ててズボンで手を拭いた後、立ち上がって手を伸ばした。
「よろしくお願いします」
「ありがとう。こちらこそ、若輩者ですがよろしくお願いします」
なるほど、幸三が言っていた通りだ。優しくて、いい人そうじゃないか。この人となら、そこそこいい関係を築けそうだ。
──そう思った矢先の出来事だった。
「──子日君の手って、なんだか可愛いね。ムラムラしてきちゃったよ」
……んっ? なんだ、今の発言は? ……聞き間違い、か?
俺はそっと、牛丸さんと握手をしている右手を引いてみる。だが牛丸さんは、俺の手を離そうとしない。
それどころか、両手でガッチリとホールドしてきた。
……背中に、じっとりと冷や汗が伝う。
「……え、っと……?」
「驚いた顔も可愛いね。……ねぇ、仮眠室に行かない?」
「かみん、しつ。……仮眠室、ですか?」
「そう、仮眠室」
牛丸さんは俺の手を両手で握ったまま、自身の胸元に引き寄せた。
──待って、待ってくれ。
──待ってくれよ頼むから待て待て待てッ!
呆然と牛丸さんを見上げていると、相変わらず眩しい笑顔で俺を見つめる。
「──手だけじゃなくて、いっそのこと下半身も繋ごう? 良かったらこの誘いも受けてほしいのだけれど、どうかな、子日君っ?」
「──うわあぁッ!」
それが、俺にとっての始まり。
……そして、平凡の終わりだった。
* * *
そして時は、現在に戻る。
隣のデスクに座っている牛丸さん──もとい、牛丸先輩との関係性を語ろう。
先輩は四月に異動してきてから、この一ヶ月──。
「──おはよう、子日君! 早速だけど、僕とセックスしよう!」
ずっと言い続けている朝の挨拶をしてきた。
一ヶ月と、一週間前。初めて挨拶をした時に感じた好印象は、いったいなんだったのか。
……いや、相変わらず背筋はゾワゾワしている。だが【別の理由】で、だ。
「はははっ」
幸三にやるように、俺は冷めた笑い声で返事をする。
愛想笑いから【愛想】というせめてもの優しさを抜いた、本当に形だけの笑い声だ。そんなことは自分でも分かっている。むしろ、そう努めてさえいるくらいだ。
そんな俺を、先輩は右手で頬杖をつきながら見つめてきた。
「今日の子日君は、なんだかご機嫌だねっ」
「腹が立っているって分からないのでしょうか」
眼科にでも行け。もしくは脳神経外科のある病院にでも入院しろ。
……初めは──本当に、初めだけは。先輩はそういった冗談を言って、俺の緊張を強引に解こうとしてくれたのだろうと思った。
「あはっ。むくれているのも可愛いね。仮眠室の鍵、借りてこようか?」
──しかし! こうも毎日だと、さすがにそう思えなくなってくるだろうッ!
【抱いた女は星の数】という噂は聞いていたが、まさか男も抱いていたなんて……ッ! さすがにそんなこと、誰からも聞いていないぞッ!
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