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5章【先ずは守らせてくれ】 1

 わけの分からないモヤモヤを抱え、それから一晩明けて。俺はなんとか平常通りの時間に、パリッと出勤した。  ……本当は『今週の出勤日は全て休んでしまおうか』とも思ったがな。  俺には兎田主任の作った商品のデータ入力をしなくてはならないという、大きな仕事がある。来週から、営業部がその商品を売り込むからだ。  一晩経って、やっとモヤモヤを抱える勇気を持ち、俺は出勤する。だがしかし、その足取りはビックリするほど重たい。  一晩、俺はずっと今の状況を考えていた。  しかし俺に思いついた解決策は、とりあえずモヤモヤが出てきたときは無理矢理飲み込むという、あまりにもしょうもない結論のみ。  シャンと背筋を伸ばして歩きつつ、実際はメチャメチャ重たい足取りで、俺は商品係の事務所に入った。 「おはようございます」  事務所に入ると、同じ係の職員が俺に挨拶をする。 「おっ、子日。おはようさん。なんか今日は妙に輝いてるな?」 「子日さん、おはようございます。もしかして、今日は大事な資料作成があるんですか?」 「なにかあったら手伝ってやるから、なんでも言ってくれよな!」  なんということだろう。優しさが、染み渡る。俺はそこそこ当たり障りのない返事をしながら、自分のデスクに向かう。  ……そして、明るい茶髪を見付けた。 「あっ、子日君、おはよう。今日はセックスする?」  今日も、先輩は笑顔だ。 「……結構、です……ッ」 「なんでそんな苦虫を噛み潰したような顔を?」  ギュンと胸が変な音を立てた気もするが、飲み込もう。自分の椅子に座り、俺は気を取り直してから先輩の頬を見た。 「……先輩、大丈夫ですか?」 「なにが?」  先ずは頭だよ。……とは、当然言わず。  相変わらず不思議そうにしている先輩の隣のデスクに座ったまま、俺は自分の頬を指で指す。 「昨日の、です」 「あぁ、そういう意味かぁ」  目を丸くしていたかと思いきや、先輩は笑顔になった。そして、圧倒的に要らない一言を付け足す。 「──キスのおねだりかと思ったよ」  嘘だろ、この色魔。  俺は先輩のいつもの冗談には触れず、大丈夫そうならそれでいいやとも思い、パソコンの電源をつける。  当然、先輩は無視だ。そんな俺の態度に、なぜだか先輩は笑っている。 「あははっ。僕は大丈夫だよ、気にしないで?」  俺のせいで蹴られて、挙句頬を平手打ちされたのに、なんで笑っているのだろう。しかも、俺はなにもできずに……挙句の果てに、結果としては逃げ出して……。  ……もしかして、と言うかヤッパリ、先輩はマゾなのか? もしもそうだとしたら、俺は先輩を心配した今この一瞬を未来永劫、後悔することだろう。 「彼、苗字も下の名前も可愛いから、それがコンプレックスらしいよ」  笑いながら、先輩が兎田主任の名前を言う。 「兎田君の下の名前は四葉(よつは)だよ。可愛いよねっ」  兎田主任には申し訳ないが、確かに……可愛い。  しかし地雷があるとか、そういうのは事前に教えてほしかった。  だが、そもそも先輩が『待って』と言ったのを無視してしまった俺が悪い。  蹴られるか、殴られるか、それ以外のなにかか……。兎田主任と会うことで俺になにかしらの危害が加わると、先輩は分かっていたのだ。だから『仲裁人』という言い回しをして、ついてこようとしてくれた。  先輩はどうしようもなく変人で、よく分からない人。だけど……根はとても、優しい人なのだ。

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