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 幸三と一緒にこの事務所に入ってきた先輩を見て、目を奪われた時のこと。あの日の光景を、今ではよく思い出す。  先輩は、カッコいい。……顔が。  そして先輩は、仕事ができる。……悔しいことに、俺よりも。  だが、それはそれ。これはこれ、だ。 「それよりも、子日君。僕が本当に無事かどうか、君の体で試してみない?」  言っていることは、最低極まりない。先輩に好意を寄せている人がこの会話を毎日聞いていたら、きっと泣くぞ。  ……それにしても、先輩と話しているとやはりモヤモヤする。きっとそれは、パソコンを見ながらでも声を聞くだけで、先輩の表情が分かるからだ。  もっと厳密に言えば、先輩が【笑顔】だって分かるから。  ……顔、顔がなぁ。黙っていたらカッコいいんだよ。  兎田主任から守ってくれた時の先輩は、普通にゾッとしたよな。……あっ、いや。こういう時は『ドキッとした』とでも言うべきだったか。  まぁ、話を戻そう。  俺は先輩に対し、らしくないことを口にした。 「──いいですよ。シましょうか」  俺がそう、返事をしたら?  さて、先輩はどうすると思う? 「──え、っ」  先輩を横目で見ると、俺の返事を聞いた瞬間。  ──先輩は反射的に、自分の右手首を掴んでいた。  二ヶ月以上観察し続けて、その癖がいつ発動するのか。なんとなくの仮説を立てていたが、今のやりとりでほぼ確信へと変わる。  パソコンに視線を戻して、俺はなんてことないように、自分の言葉に付け足す。 「って。俺がそう言えば、先輩はようやく諦めてくれるんですか?」 「……ヤダ、な。本気にして、今すぐ君を抱くよ」  もう一度横目で先輩を見やると、先輩は右手首から手を離していた。  その癖は【好意を寄せられたときにする行動】かと思っていたが、微妙に違う。  先輩が右手首を掴んだり撫でたりするのは、至極単純な理由。  ──それは、先輩が【困っているとき】だ。  俺は冗談で、先輩の口説きに応じた。だけど、先輩は俺から好意を向けられると、本能的に困る。  それでも、先輩にとってたった一人安心できる存在は、先輩に対して【苦手】という気持ちを持っている俺だけ。先輩に僅かばかりでも好意を向ける俺は、先輩を困らせる。  その言葉が冗談だとしても、先輩にとって安心できる存在である俺からだとしても、先輩は向けられる【好意】全てに困るのだ。  だったら俺は、先日立てた誓いを守るだけ。俺の部屋に先輩を呼んだ時と、なにも変わらない。  ──俺は先輩を、傷付けたくないのだ。  そして、先輩に宣言した通りに接する。  ──俺は先輩にとって、優しい奴でいてやるのだ。  だったら先輩が怖がるようなことを、イタズラにしてはいけないだろう。もう二度と、先輩からの誘いに『イエス』と答えてはいけないのだ。 「先輩、今日も気持ち悪いです」  そう言って、書類に目を通す。  右隣の先輩を見ると、俺の反応に随分と嬉しそうだ。……まったく、しょうがない人だな。こんな面倒な男を相手にして、俺はとんだ苦労人だ。  しかし、今の先輩には俺しかいない。いくら心がザワザワしていようと、この感情に名前が付けられなかろうと。 「そんな冷たい子日君だからこそ、僕は抱きたくて堪らないんだよね」  苛立ちも不愉快なモヤモヤも、全部飲み込んでみせる。  俺は先輩を、突き放しはしないさ。

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