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 兎田主任を見上げて、俺は口を開いた。 「この前は、いきなり……すみません、でした」  アポ無しで訪問したことと、コンプレックスだと知らずに名前を呼んだこと。そのふたつの意味で、俺は頭を下げる。  俺がしばらく、そうしていると……。 「……テメェはいつまで頭を下げてるつもりだ?」  兎田主任の低い声が頭上から降り注いできたのと、ほぼ同じタイミングで。  ──頭部に痛みが走った。 「──いたっ!」 「──兎田君ッ!」  下げていた頭を、兎田主任にいきなり鷲掴みされたのだ。  それを見ていた先輩が声を張り上げるが、兎田主任は無視をする。俺の頭を掴んで、自分の方を向かせようとしていることに真剣だからだ。 「要件はそれじゃねぇんだよ。無駄な時間使わせんな、ダボが」  そう言って、顔を上げた俺の頭を今度は後ろに押す。容赦ない手つきに、俺は思わずよろめいてしまう。  すると、先輩が咄嗟に俺の肩を抱いた。 「兎田君、無意味に人を驚かせないであげてよ」 「黙れ、名前で呼ぶな」  そう言うと、兎田主任は俺に向かって資料の入ったクリアファイルを突き出す。それは、俺が修正を頼んでいた資料だ。 「あっ、ありがとう、ございます……っ」  恐る恐る受け取ると、兎田主任は俺を睨む。それがまた怖くて、俺は身を竦めた。  俺の肩に手を置いていた先輩は、俺が怯えていることに気付いたのだろう。  俺の肩から手を離し、俺と兎田主任の間に割って入るように、先輩は兎田主任に苦言を呈した。 「そんな怖い顔しないであげてよ」 「あァッ?」  兎田主任はさらに腹を立てているようで、俺の次は先輩を睨み付けている。  これは、あまりにも不穏な空気だ。俺は先輩のスーツの裾を引こうとしたが、寸でのところで手を止める。  たぶん、俺から先輩に触れるのは駄目だ。なんとなくそう察した後、俺は声を潜める。 「先輩、俺は気にしてないですから……っ」 「子日君のためっていうのも勿論あるけど、今後またこういうことが他の人とあったときのためでもあるよ」  それを聞いて、兎田主任は突然。  ──ニヤリと、笑い出した。  その姿に、背筋がゾッとする。 「……珍しいな、ウシ? テメェが誰かに肩入れするなんてよ。随分とソイツを気に入ってるじゃねぇか?」 「……っ。……そう、だね。彼とは同じ部署、だからじゃないかな」  先輩がそっと、自分の右手首を掴んだ。  ──嫌な予感が、する。 「そっちのガキはどうか知らねぇが、なんだ? ようやく【トラウマ】を克服して、楽しい楽しい片想いでもしてんのか?」  なにを、言って……っ! 俺は声を張り上げそうになったが、なんとか堪える。  ここで反応をしては、俺が先輩を庇おうとしているとバレてしまう。そうすればきっと、兎田主任は嬉々として先輩を虐めるだろう。  先輩は右手の手首を掴んだまま、いつもとは違う笑みを浮かべていた。  まるで、貼り付けたような。乾いた笑みを、浮かべている。 「君と恋バナができるなんて、夢みたいだなぁ」 「否定しねぇのか? ……へぇ?」 「あははっ」  ──違う、違う違う……ッ!  先輩は、否定をしないのではない。先輩は、この手の話題が苦手なのだ。  笑って誤魔化そうとしているけれど、いつもの先輩とは違う。その対応は、あまりにぎこちなかった。

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