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 なん、て……っ?  驚きで、両目を見開く。頭を固定されているせいで、兎田主任から顔を逸らせない。  俺の驚き方に満足しているのか、兎田主任の不敵な笑みはそのままだ。 「その事件を、上層部は無かったことにしたかったんだろうな? 普通なら『契約を取りに行ったら本気で好かれて、挙句の果てには営業相手に死にかけられた』なんてヤバイ奴、消そうとするだろ? 会社の保身のためには、なぁ?」  先輩を見たいのに、兎田主任の話を止めないといけないのに。……驚きで、体が動かない。  だけど、なにか……っ。なにかを、言わなくては……っ。 「や……めて、ください……っ」 「その女はな、会うたびにウシの右手首を掴んでたんだよ。気を引こうとそれはそれは必死でな? かなり健気だったんだぜ? どうだよ、勤勉野郎。いじらしいと思うだろう?」 「やめてください……ッ!」  ズカズカと、兎田主任は先輩のトラウマに踏み込んでいる。先輩の過去になにがあったかなんて知らない俺でも、それだけは分かった。  俺は両手で、兎田主任の胸を押す。それでも、兎田主任は上機嫌な様子で語り続けた。 「上層部もバカだよなぁ? そんな奴でも首を切るのはもったいないって思ったんだろ。だから、妥協案として左遷だ」 「やめてくださいって言ってるじゃないですかッ!」 「紳士ぶってるくせに恋愛が怖いなんて、マヌケな奴だろ? ハハッ!」 「ッ! 先輩はマヌケな奴なんかじゃないッ!」 「ハハハッ! いいツラしてんじゃねぇか! 面白いなぁ、ガキッ!」  トラウマを踏み荒らすだけ踏み荒らして満足したのか、俺の反応に満足したのか。兎田主任は不敵ながらも可笑しそうに笑うと、俺の頭から手を離した。  兎田主任から解放されると同時に、俺は先輩を振り返る。 「先ぱ──」  そこに立っていたのは、普段の先輩とはあまりにかけ離れた表情をした先輩だった。 「──っ」  顔面蒼白になって。  鬱血してしまうんじゃないかと思うくらい、腕を震えさせるほど力強く、右手首を掴んでいる。  ──いや、だ。嫌だ、嫌だぞ。  ──そんな顔、見たくない……ッ!  先輩は当時のことを思い出しているのか、呆然と立ち尽くしている。  俺が、嘘でも『知っている』と相槌を打てば。そうすれば……先輩は、こんな顔をしなくて済んだのか?  ……胸が、痛い。涙が出そうになるほど、先輩の姿は痛々しい。  そんな俺たちを見て、兎田主任はひとしきり笑った。 「資料は渡した。ちゃんとデータをまとめて、クズ共に売り込むよう手回ししとけよ」  そう言って、兎田主任は仮眠室に戻る。 「先輩……っ」  俺はしばらく兎田主任が閉めた扉を見ていたが、扉を見ていたところで事態はなにも解決しない。そう思い、俺は先輩に駆け寄った。  俺の声に、先輩は口角を少しだけ上げる。 「……あ、ははっ。……ごめんね、子日君。変な話、聴かせちゃって」  両腕を震わせながら、先輩はそんなことを言う。こんな状況なのに、先輩は俺に気を遣っているのだ。  ──先輩はなにも、悪くない。  先輩が【好き】を怖くなったのは、自分のことを好きになった相手が、目の前で自殺しようとしたからだった。  それをすることで、女性がどんな思いを伝えたかったのか分からない。  けれど、その行為は確かに先輩に記憶された。  ──【恐怖】という、拭いされない感情を植え付ける形で。

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