54 / 250
5 : 7
なん、て……っ?
驚きで、両目を見開く。頭を固定されているせいで、兎田主任から顔を逸らせない。
俺の驚き方に満足しているのか、兎田主任の不敵な笑みはそのままだ。
「その事件を、上層部は無かったことにしたかったんだろうな? 普通なら『契約を取りに行ったら本気で好かれて、挙句の果てには営業相手に死にかけられた』なんてヤバイ奴、消そうとするだろ? 会社の保身のためには、なぁ?」
先輩を見たいのに、兎田主任の話を止めないといけないのに。……驚きで、体が動かない。
だけど、なにか……っ。なにかを、言わなくては……っ。
「や……めて、ください……っ」
「その女はな、会うたびにウシの右手首を掴んでたんだよ。気を引こうとそれはそれは必死でな? かなり健気だったんだぜ? どうだよ、勤勉野郎。いじらしいと思うだろう?」
「やめてください……ッ!」
ズカズカと、兎田主任は先輩のトラウマに踏み込んでいる。先輩の過去になにがあったかなんて知らない俺でも、それだけは分かった。
俺は両手で、兎田主任の胸を押す。それでも、兎田主任は上機嫌な様子で語り続けた。
「上層部もバカだよなぁ? そんな奴でも首を切るのはもったいないって思ったんだろ。だから、妥協案として左遷だ」
「やめてくださいって言ってるじゃないですかッ!」
「紳士ぶってるくせに恋愛が怖いなんて、マヌケな奴だろ? ハハッ!」
「ッ! 先輩はマヌケな奴なんかじゃないッ!」
「ハハハッ! いいツラしてんじゃねぇか! 面白いなぁ、ガキッ!」
トラウマを踏み荒らすだけ踏み荒らして満足したのか、俺の反応に満足したのか。兎田主任は不敵ながらも可笑しそうに笑うと、俺の頭から手を離した。
兎田主任から解放されると同時に、俺は先輩を振り返る。
「先ぱ──」
そこに立っていたのは、普段の先輩とはあまりにかけ離れた表情をした先輩だった。
「──っ」
顔面蒼白になって。
鬱血してしまうんじゃないかと思うくらい、腕を震えさせるほど力強く、右手首を掴んでいる。
──いや、だ。嫌だ、嫌だぞ。
──そんな顔、見たくない……ッ!
先輩は当時のことを思い出しているのか、呆然と立ち尽くしている。
俺が、嘘でも『知っている』と相槌を打てば。そうすれば……先輩は、こんな顔をしなくて済んだのか?
……胸が、痛い。涙が出そうになるほど、先輩の姿は痛々しい。
そんな俺たちを見て、兎田主任はひとしきり笑った。
「資料は渡した。ちゃんとデータをまとめて、クズ共に売り込むよう手回ししとけよ」
そう言って、兎田主任は仮眠室に戻る。
「先輩……っ」
俺はしばらく兎田主任が閉めた扉を見ていたが、扉を見ていたところで事態はなにも解決しない。そう思い、俺は先輩に駆け寄った。
俺の声に、先輩は口角を少しだけ上げる。
「……あ、ははっ。……ごめんね、子日君。変な話、聴かせちゃって」
両腕を震わせながら、先輩はそんなことを言う。こんな状況なのに、先輩は俺に気を遣っているのだ。
──先輩はなにも、悪くない。
先輩が【好き】を怖くなったのは、自分のことを好きになった相手が、目の前で自殺しようとしたからだった。
それをすることで、女性がどんな思いを伝えたかったのか分からない。
けれど、その行為は確かに先輩に記憶された。
──【恐怖】という、拭いされない感情を植え付ける形で。
ともだちにシェアしよう!