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俺は先輩の目の前に立ち、先輩の視界に入るように立つ。
「先輩……っ」
そんな俺を視界に捉えて、ようやく先輩が、俺を見た。
いつもなら、目が合えば笑ってくれるのに……っ。先輩は俺を見ているようで見ていないような、そんな虚ろな目をしている。
口角を上げてはいるけれど、それは笑顔とはほど遠い。
先輩が右手首を掴んでいる左手に、俺は手を添えようとした。
「……っ」
そうすると先輩はビクリと震えて、体を半歩引く。
……あぁ、やはり駄目なのだ。俺は先輩に、触れることすらできない。
すぐに手を引っ込めて、俺は先輩に『触れるつもりはない』と言外に伝えた。
「先輩。ここには、俺だけです。俺だけですから」
なんとか声をかけると、先輩の虚ろな瞳がもう一度、俺を映す。
それから先輩の腕の震えが、ゆっくりと止まった。
「……子日、くん……っ」
眉間に皺を寄せて、まつ毛が震えている。すると今度は腕だけじゃなく、体すらもが小刻みに震えていた。
そんな先輩を見ているだけで、俺も体が震えてしまいそうだ。
先輩は俺を見つめたまま、泣き出しそうな瞳を向けたまま。……まるで縋るように、呟いた。
「──抱き締めても、いいかな……っ?」
なんでこんな状況でも、先輩は俺の気持ちを汲もうとするのだろう。
むしろ、それは……っ。
──俺が今すぐ、そうしてあげたいのに……っ。
だけどそれを俺からしたら、先輩はもっと傷付くかもしれない。現に俺が手に触れようとしただけで、先輩は怯えたのだから。
それでも、先輩は俺を抱き締めようとした。
……いや、違う。
──先輩が腕に抱きたいのは、自分を【嫌っている人】で、自分を【苦手な人】なのだろう。
だから俺は、気丈に振る舞った。
「──『嫌だ』って言っても、先輩なら勝手にするじゃないですか」
引っ込めた手で、拳を握る。先輩を見上げて俺は、必死にいつもと同じ顔をした。
そうすると同時に先輩の両腕が、俺の背に回る。そのまま、力強く引き寄せられた。
「子日君……ッ」
痛いくらい強く、先輩が俺を抱き締める。
「ごめん。ごめんね、子日君……ッ」
先輩の額が、俺の肩に乗せられた。
「僕は、彼女に……っ。彼女の会社の屋上に、呼び出された時……ッ。本当は少しだけ、嫌な予感がしていたんだ……ッ!」
先輩が言う『彼女』というのは、兎田主任が言っていた『女社長』で。……つまり、先輩の目の前で自殺をしようとした人のことだろう。
「『好きになってくれたら、なんでも契約する』って言われて、風が吹いたら落ちてしまいそうなギリギリの場所に、彼女は立っていて……ッ。『そういう契約はお互い、良くありません』って言ったら……ッ!」
「先輩……っ」
資料の入ったクリアファイルを持つ手に、力を籠める。空いている方の手は、依然として拳を握っていた。
──先輩の背に、腕を回したい。
──『大丈夫ですよ』と言って、震えた体を撫でてしまおうか。
そんな考えが、頭をよぎった。
「──怖かった……ッ!」
肩に、熱いなにかが押し付けられている。ジワジワと広がっていくその感覚に、俺は『先輩は今、泣いているのだ』と気付く。
それでも、俺からはなにもしてはいけない。
「【好き】って気持ちは人を狂わせるって、以前君に言ったけど……いざ自分にその狂気が向けられると、堪らなく、怖くなった……ッ」
俺を抱き締める腕の力が、強くなった。けれど、この腕が俺を『愛しい』と思って抱き締めているわけじゃないのを、知っている。
そしてそんな日が、一生こないことも。
……俺は、知っているつもりだ。
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