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先輩にとって俺は、特別だ。
そして俺にとっても先輩は、きっと特別。
もしも先輩が『今すぐ俺を抱いたら心底安心できる』と本心から言ってきたら、きっと俺は抱かれてあげるのだろう。
それでも、俺が先輩に抱く、この感情。これが【好意】なのかどうかは、よく分からなかった。
ただ俺は、先輩の笑顔が見たいだけ。俺は先輩に、幸せでいてほしいのだ。
「そもそも【人を好きになる】って、なろうとしてなるものじゃないと思いますよ」
「……うん」
「今は無理でも、いつか先輩は……トラウマを克服して、好きな人ができますよ」
「……うん」
「と言うか、もう泣き止んでいますよね? 落ち着いたなら、そろそろ離れてくれませんか?」
「それは、うん……とは、言えないかな」
先輩は腕の力を弱めて、愛されていると錯覚してしまいそうなほど優しく、俺を抱き締めた。
「もう少し、このまま。……君を、抱いていたい」
俺自身じゃないのは、分かっている。先輩が抱いていたいのは【安心感】だ。俺にそれを投影させて、疑似的に抱き締めていたいだけ。
先輩はそっと、顔を上げる。
「──今すぐ、君を抱き潰したいよ」
耳元で、唇が触れるのではないかという距離で。まるで俺を口説くように、先輩は囁く。もう確実に、涙は止まっているのだろう。それは、とてもいいことだ。
……それにしても『抱き潰したい』か。まったく、よく言う。そんなこと、できないくせに。
それでも先輩相手だったら、そっちの経験はないけれど、抱かれたっていいさ。
仮眠室でもどこでも、俺は先輩相手だったらいいって思っているのだ。
俺が失うはずのなかった処女を捧げることで、先輩が笑うのなら。男の処女性に価値があるとは思えないが、俺は先輩にいくらでも抱かれてやる。
……どうせ先輩は、本気で俺を求めはしないけれど。
これだけの決意があることを、先輩は知らない。だから、こんな軽口が言えるのだ。
先輩に抱き締められたまま、俺はするりと嘘を吐く。
「嫌ですよ、気持ち悪い」
「駄目か。……相変わらず君は、手強いね」
「その辛気臭い顔を見ていると不愉快で、仕事に支障が出そうです。そのくらい俺は、今の先輩が嫌なんですよ。いっそ、早退してほしいくらいです」
「酷いなぁ。心配してくれたっていいのに」
──しているよ。だから、こう言っているんじゃないか。
冗談が言えるくらいには調子を取り戻したのか、先輩は俺の耳元で小さく笑っている。その笑い声を聞いて、俺も内心でホッとした。
俺は、先輩が大切だ。俺が捧げられるものなら、なんだって捧げて守ってやる。
──強くて、弱くて。
──カッコ良くて、情けない人。
だけどこれは、恋じゃない。俺が【恋】だなんて先輩にとって恐ろしい感情を、抱くはずがないのだ。
先輩の腕から逃れようと身をよじり、俺は先輩を引き剥がそうとする。
「心配してほしいなら、今日はもう帰ってください」
「あははっ。……有休も余ってるし、そうしようかな」
「それじゃあ、思い出したときにでも心配しておきますね」
「僕も、離れていたって君を想うよ」
「そういうのは心底要らないですから」
素っ気無くそう返すと、先輩は俺の頬に自分の頭を擦り寄せる。
……その日。先輩は俺に心配してほしかったのか、精神的に参っていたのか。
俺が言った通り、午後から早退した。
5章【先ずは守らせてくれ】 了
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