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兎田主任はすぐに、先輩から俺の方へと視線を戻す。
「先輩と俺は、ただの同僚です。だから、変な言い回しをしないでください」
自分で言って、涙が出そうだ。そのくらい、全く吹っ切れていない。
まったく、俺のサービス残業はいったいなんだったのか。悲しみを通り越して、いっそのこと笑ってしまいそうだ。
だけど、俺の胸が痛むのがなんぼのものだ。
先輩をもう、傷付けたくはない。そのためならば、針を千本飲んでやる。恋心なんていう甘いものを、焦げるまで焼いてみせよう。
今度こそ俺は、先輩のことを『なんとも思っていない』という演技を貫かなくちゃいけないのだから。
俺の言葉を聞いて、兎田主任は俺の頭から手を離す。
「……くだらねぇ。こんなガキに庇われるなんて、テメェも落ちたな、ウシ」
それから兎田主任は、忌々し気に舌打ちをした。
するとそれ以上なにも言わず、兎田主任は俺たちのそばから離れる。
一先ず、危機は去った。
だが、この状況はこの状況で困るぞ。言うなれば【一難去ってまた一難】というやつだ。
突然二人きりにされて、俺と先輩はお互いに沈黙する。
関係を悪化させないようにと思って、勢いで出てきたのはいいけれど。この結果を見るとむしろ、関係を悪化させてしまった気がするぞ。
とりあえずこの場から離れようと、俺は階段へ向かう。
一階に下りようとするも、どうやら先輩の行き先も一階らしい。結局、二人で下りていく状態だ。
……正直、かなり気まずいぞ。この状況に、頭がフラフラしてくる。
……ん? いや、それはおかしい形容詞だ。こういう時は『フラフラ』ではなく『クラクラ』と言うものではないか? なんで、頭がフラフラしてくる?
……いや、合っているのか。合っている、よな?
そう言えばなんだか、さっきから階段を下りている感覚がない気もする。それになぜか、膝が冷たい。
……はっ? なんで、膝が冷たいんだ? これはどういう──それに、膝だけじゃないだろ。腕も冷たいぞ。……いやだから、なんで冷たいんだよ?
……駄目、だ。確認しようにも、まぶたが開かない。……あれ? いつの間に俺は、目を閉じていたんだっけ。
なんだっけ。俺はいったい、なにを悩んでいたんだったか。
あぁ、そうだ。俺は、先輩と一緒で。……先輩のことで、悩んでいて……っ?
そこで、なぜか。
──俺の意識は突然、プツリと途切れた。
* * *
見慣れない、薄暗い部屋。そこで俺は、ゆっくりと目を覚ました。
背中に、なにかが当たっている感覚。その感覚で、俺は今『横になっているのか』という状況を理解した。
……理解した、が。
──なんで俺は、横になっているのだろうか。
確か俺は、うどんを食べて──いや、ほとんど食べないで幸三にあげたんだっけ。それで、事務所に戻ろうとして?
階段のところに先輩と兎田主任がいて、それで……っ?
「──先輩っ!」
そこで俺は、ハッとして起き上がった。
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