87 / 250

8 : 8

 そうだ! そうだった、そうだったじゃないか!  俺は階段を下りている途中で、急に意識が朦朧としたのだ。それに耐えられずしゃがみ込んで、それで……。今度はしゃがんでいるのが辛くなって、確かそのまま倒れて……っ。  いや、俺の体調なんてこの際どうだっていい。  近くにいた先輩に、迷惑をかけてしまったかもしれない。そっちの方が、何倍も気がかりだ。 「──うわっ!」  そう思い出すと同時に、聞き覚えのある声が響いた。まるで、なにかに驚いたかのような声だ。  その声は、聴き間違えるはずもない……。 「せん、ぱい……っ?」  先輩の、声だ。  先輩はノートパソコンに向けていた視線を、俺に移した。 「ビックリしたぁ。いきなり大声を出して起き上がるんだもん」  そう言う先輩の顔は、自己申告の通り驚愕の色を浮かべている。  ヤッパリ、さっきの驚いたような声は先輩のものだったのだ。俺がいきなり起き上がったから、先輩を驚かせてしまったのか。  ──だけど、なんで先輩がここに?  もしかして、と。俺がそう思うと同時に、先輩は答えを口にした。 「大丈夫? 階段の踊り場で急にしゃがんだと思ったら、君、そのまま倒れたんだよ? 僕も兎田君も、凄く心配したんだからね?」  先輩と兎田主任が、ここに運んでくれたのか?  ノートパソコンの光に照らされながらそう言う先輩は、いつもの笑顔を浮かべている。それを見ると、消そうと思っていた気持ちがまた、勝手に溢れてきそうになった。  ──先輩の笑顔が、好きだ。なにもかもがどうでもよくなって、妙に安心してしまう。  けれど、今はそんなことを考えている場合ではない。俺は慌てて、先輩に向かって頭を下げた。 「すみません、先輩! 迷惑を、かけてしまって……っ!」  先輩はノートパソコンを閉じて、俺の顔を覗き込んだ。 「うーん……? 薄暗くてよく分からないけど、少しは顔色が良くなった……の、かな?」 「え、っ」  先輩は距離を詰めて、俺の顔をジッと見つめてくる。  至近距離で見つめられて、先輩は『ただ心配してくれているだけだ』って、分かっているのに。浅ましい俺の恋心は、勝手に頬を熱くさせた。  先輩は俺の顔を見つめたまま、困ったように笑う。 「最近の子日君、根を詰めすぎていたから。……君の顔色が悪いのは、知っていたんだよ」  そんなふうに言われると、嫌でもドキドキしてしまう。  ──見て、たのか。俺の、顔。  そんな些細なことなのに、俺は喜んでいるようだ。  隣のデスクなのだから、嫌でも目に入る。理由なんて、それだけ。それでも俺の胸は、バクバクとしつこいほどに叫んでいる。  あれから、一度も『セックスしよう』と言ってこなかったから。てっきりもう、俺に興味はなくなったのかと思っていた。  ……あぁ、悔しい。少しだけ、嬉しい気がするなんて。  俺が馬鹿みたいにそう思っていると突然、先輩が瞳を伏せた。 「──でも、君の気持ちは知らなかったよ」  それを聞いて、俺は思わず……。 「──っ」  ビクリと、体を震わせてしまった。

ともだちにシェアしよう!