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 そうだ。  あの日のことは、無かったことになったわけじゃない。  俺は先輩の気持ちを知っていたのに、自分のことばかりになってしまっていた。 「そっ、れは。……それはもう、気にしなくて大丈夫ですよ」  我ながら、自分勝手だ。勝手に好意を寄せたのに、たった数日で『気にするな』と言うなんて。あまりにも滑稽で、馬鹿な話だろう。  けれど、先輩はそれに対してなにも言わない。  沈黙に耐えられず、俺は掛けてあった薄い毛布を強く握る。 「……あのっ、ですね、先輩。実は俺、先輩のこと……そういうふうに、思っていないんですよ」  先輩の目が、ジッと俺を見つめていた。その目はいったい、どういう思いが込められているのだろう。  疑心か、軽蔑か、非難か……。だけど、どうだっていい。  俺が今度こそ先輩にとっての【優しい奴】でいるためには、この儀式はクリアしなくてはいけないのだから。 「なんて言うか、この間のも冗談と言いますか。あんまりにも先輩が『トラウマ克服』って言うから、一先ず一番身近な俺で試してみようかなって思っただけで。それなのに先輩が、あんなに露骨な困り方するから。だからちょっと『なにを言っているんだろうこの人は』って、腹が立っちゃって。だから、最近先輩と距離を取っていたのはそういうことなんですよ」  来年度は営業部にでも異動させてもらおうか。そのくらい、スルスルと言葉が出てきた。  ……大丈夫だ、大丈夫。俺は今、淀みなく喋れているはず。 「本当に、先輩は駄目ですね。あんな様子じゃ、トラウマ克服なんて夢のまた夢ですよ。早く俺以外に安心できる人を見つけてくださいよ、まったく。先輩が今のまま変われないのなら、俺だってたまには、度を越したイタズラをしますからね」  見つめられていると、声が震えそうになる。  それでも俺は、目を逸らさない。先輩の顔を見るのは、兎田主任に睨まれることに比べれば、なんてことないイージーゲームだ。  すると、先輩はそっと眉を寄せた。 「……本当に?」  どうしてこの状況で、わざわざ訊き返したりするのだろうか。俺が発した言葉に対して、先輩は確かめるように訊き返してくる。  それはきっと、安全確認のような意味なのだろう。俺が先輩を好きでいることは、先輩にとったら【困ること】なのだから。 「はい。……と言うか、当り前じゃないですか。誰が、先輩みたいなセクハラ常習犯な色情魔のことを好きになるものですか。そんなの、趣味が悪いにもほどがあるでしょう?」  前までは、どうして演技なんてできていたのだろう。そう思ってしまうほど、自分の気持ちを隠して、偽りの言葉を少し口にしただけで。  ──たったそれだけなのに、俺の心がギチギチと締めつけられる。  ──痛くて、胸を裂きたくなるほどだ。  好きなのに、先輩には『好き』と言ってはいけない。拒絶されているのだから、俺の気持ちはあってはならないのだ。  そうは、分かっていても。……そう分かっているからこそ、苦しくて。 「あぁ、もう。そんなに見ないでくださいよ、先輩。……気分が、悪くなっちゃいます」  俺は堪らず、先輩から顔を背けてしまった。 「『当たり前』か……。だったら……っ」  先輩が、声を絞り出す。  すると突然、先輩は俺の両頬に手を添えた。そして先輩の方を向かせるように、俺の顔を持ち上げてくる。  そのせいで、目が、合ってしまって……。 「──だったら、泣かないでよ……っ」  自分の気持ちに嘘を吐いただけで、胸が痛くて苦しくて。だからそれらしいことを言って、顔を背けたのに。  ──この気持ちが、勝手に涙を溢れさせてしまったなんて。  先輩には、知られたくなかったのに。

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