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 仮に、先輩が俺の天使だとしたら。先輩が持っている天使の輪は、俺の頭に乗せるものだ。……俺と先輩の関係は、そういうことなのだろう。  好意を抱いては、駄目なのに。先輩のこの手を『愛おしい』と思うのは、大罪だ。  駄目なのは、分かっている。思考回路が焼き切れてしまっても、それだけは忘れたりしない。  ……それ、でも。  ──もっと、触っていてほしい。  ──俺だけを、見てほしいのに……っ。 「ごっ、め……な、さい……っ」  目を逸らせず、涙を止めることもできない。俺は汚い声で、それでも正直な謝罪の言葉を伝える。 「先輩は、こんなの……迷惑って、思う。そんなの、ちゃんと分かっているんです……っ」 「やめてよ、子日君」 「俺の、こんな気持ち……っ。先輩を怖がらせるって、分かっているんです……っ」 「やめてったら」 「俺、頑張って……頑張って先輩のこと、諦めますから……っ。だから、先輩は笑って──」 「──子日君ッ!」  先輩の怒鳴るような声に、思わず体を震わせてしまう。  そこで俺は、ようやく気付く。 「泣かないでよ、子日君……っ! 君に泣かれたら僕は、どうしていいのか分からない……っ」  ──よく見ると先輩も、泣きそうな顔をしているのだということに。  俺だって、先輩のそんな顔。……どうしていいのか、分からない。  先輩には、笑顔でいてほしいのに。そのためだったら、いくらでも演技をしてみせると誓った。前までは、それができていたのに。  ……どうして俺はあんな、先輩を傷付けるようなことをしてしまったのだろう。  俺のことが怖いはずなのに、先輩に気まで遣わせて……。俺はいったい、なにをやっているのだろうか。  先輩は眉を寄せたまま、絞り出すように呟いた。 「さっきは、兎田君から助けてあげられなくて……ごめん、ね」  俺が、意識を失う前。 『奪い取る度胸もないくせに、口先だけはいつだって軽薄で達者だよなぁ?』  兎田主任の言っていた言葉を、思い出す。  なんで先輩は、そんなことを気にしているのだろう。  そもそも、俺があそこを通らなければ捕まらなかったわけで。結局のところ、あれは『自業自得』と言っても過言ではないのに。  先輩は俺の目元を、指で優しく拭う。その行為に、また涙が出そうだった。 「君に触れて、君が泣いてしまうんじゃないかって。そう思うと、なにもできなかった。……なのに僕は結局、君を泣かせてしまった」  ──は、っ?  先輩の言っていることに、思わず目を見開く。 「君は、僕の世界できっと……一番、優しい存在だ。以前は、僕のことを好きにならない──誰にも関心を持っていない君だから、僕は君のことをそう思っていた」  辛そうな顔をしている先輩が突然、語り始める。  いったい、先輩はなにを言い出して……っ? 「だけど君は、僕に好意を持っていた。いつからそうだったのか、僕は知らない。だけど……それでも君は、その気持ちを隠してくれていた。それがどうしてなのか、なんのためなのか。それくらい、僕にだって分かる。君はただ【僕を怖がらせないため】に、隠し続けてくれていたんだよね?」  そう言って、先輩は悲しそうな顔のまま。 「──だったら君は僕にとって、世界で一番優しい存在だよ」  小さく、微笑んだ。  そう言うや否や、先輩は俺に顔を寄せる。  ──そして。  ──先輩は俺の目元に、キスをした。

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