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続 3 : 10

 終業時間になり、僕は男子トイレで手を洗う。  ……顔を上げて、鏡に映る自分を見る。するとたちまち色々なものが剥がれた気がして、僕はがっくりと項垂れてしまった。 「あぁ、本当に……最悪、だ……っ」  鏡に映った僕は、気を抜いていたのだろう。酷い顔をしていた。  これでは、子日君に合わせる顔がない。きっと今の顔を彼が見ていたら、心配をさせてしまうだろう。そんな気持ちを向けさせてしまうのならいっそ、普段通りの冷たい目を向けられる方が何倍もマシだ。むしろ、救いだろう。  一瞬とは言え、子日君は確かに表情を強張らせていた。彼がそんな態度を思わず取ってしまったのも、仕方がないだろう。先におかしなことをしてしまったのは、僕の方なのだから。  僕のために、自分の感情を隠してくれていた子日君のように。僕は彼の優しさに、応えたかった。子日君のように、優しい人になれたらと思ったというのに。  結局、僕は自分勝手で駄目な奴だ。子日君の恋人になって、子日君と関係を持って、子日君の特別になったというのに。……それでもまだ足りないなんて、どうかしている。  今すぐ、自分の頬にセルフパンチを食らわせたい。……しかし、そんなことをすればすれ違う人に『なにがあった』と心配させてしまうだろう。少なくとも、子日君は確実にそう言う。  と言って、いつまでもトイレに逃げているわけにもいかない。僕はパンチではなく、頬を軽くパンと叩いて気合いを入れた。  鏡に映る、自分の顔。頬を叩いた後に浮かべた笑顔は、いつも通りだ。自分でも驚くほど、上手に笑えている。  これなら、問題はない。子日君になにを訊かれても、上手に答えられるだろう。だからきっと、子日君は劣悪で醜悪な僕の心に気付かないでいてくれるはずだ。  大丈夫、大丈夫さ。僕はそう、心の中でしつこいほどに呟いた。  ようやく通路に出て、事務所へと向かう。そうすると、退勤する職員とすれ違った。最近は業務が比較的穏やかだし、定時で帰れたのだろう。  僕は得意な笑みを浮かべて、社会人らしい挨拶をしながら手を振る。会う職員は普段通りの返事を、僕にしてくれた。……どうやら、今の僕になんの違和感もないらしい。良いことだ、とても。  ニコニコと笑ったまま事務所に戻ると、そこには子日君しかいなかった。彼の様子を見るに、帰る気配もない。  ……もしかして、帰っていった職員の中には子日君に仕事を頼んだ人でもいたのだろうか? そう考えると思わず笑みが消えそうになるが、それでは鏡を見て笑顔を貼り付けた意味がない。僕はなんとか、表情筋を堪えさせる。 「どうしたの、子日君。帰らないの?」  近付いて気付いたが、どうやら子日君はパソコンの電源を切っていたらしい。画面が、真っ暗だ。  子日君は僕を見上げて、そのまま黙っている。僕は笑みを浮かべたまま、一先ず自分の椅子に座った。 「そんなにジッと見つめられると、さすがの僕でも照れちゃうよ。……もしかして、僕の顔になにか付いてるのかな?」 「えぇ、付いていますね」 「えっ、嘘っ?」 「はい。嘘です」 「……えっ?」  どういう意味だろう? 子日君の言っている意味が分からない。  すぐに子日君は、僕の顔を指で指した。そして、眉を寄せたのだ。 「──【嘘】が貼り付いています」  僕の疑問を解消する言葉と共に。

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