166 / 250
続 4 : 6
昼休憩が終わる、直前。
俺が事務所に戻ると、件の先輩がパァッと笑みを浮かべたではないか。
「あっ! おかえりっ、子日君っ!」
「ただいま戻りました」
「ふふっ。会いたかったよ」
つい一時間前も隣にいただろうが。……とは言わずに、俺はデスクに着席。
「えっ。ど、どうして防犯ブザーを……っ?」
引き出しの中から小物を取り出し、デスクの上をちょっぴりアレンジ。そうすると先輩は俺の方へ寄せかけていた椅子を、そっと引いた。
……それにしても、だ。なんだか最近、この人は包み隠さなくなってきた気がするぞ。
だがしかし、それもある意味で変化なのだろう。確実にいい方向へと、先輩は進めている。
だけどきっとそれは、とても覚束ない足取りで、だ。先輩自身の足で進んでいたとしても、そこに対する介助を確実に必要としているだろう。
俺が隣で先輩に肩やら手やらを貸し、先輩が進むべき方向を懐中電灯で照らしている。周りは真っ暗で、先輩に見えているのは足元だけ。
だから先輩には、分からない。暗闇から突然、音もなく野生動物が飛び出してくるタイミングが。そこまで頭が回らず、先輩はただただ照らされた道を、ゆっくりと確実に進んでいる。
だから先輩は、野生動物が飛び出してきたときの対処ができない。そしてそれを先輩に教えてあげられるのは、俺だけだ。野生動物自身が『行っきまぁ~すっ!』と叫んだのでは、あまりにも遅い。
先輩には少しずつ、トラウマを克服してもらいたい。そのためならばいくらだって肩を貸すし、懐中電灯だって持ち続ける。野生動物の気配に気付いたのならば、先輩が振り返る前に撃退してみせよう。
だが、今回は遅かった。野生動物──俺たちの関係を知っている者が、王手をかけているのだ。
だから俺は、先輩を守る。手を握ったまま正しい道へ導きつつ、俺は先輩に『危険だ』と伝えなくてはならないのだ。
俺はポケットからスマホを取り出し、トントンと画面を叩く。すると、先輩がピクリと動いた。
そして先輩も俺と同様に、スマホをポケットから取り出す。それから一度、先輩は俺の方にチラリと視線を向けた。
……まぁ、それもそうだろう。隣に座っている俺が、先輩にメッセージを送ったのだから。
『仕事が終わったら、うちに来てくれませんか?』
『子日君からお誘いしてもらえるなんて嬉しいな』
『大事なお話があります』
『別れ話以外ならなんでも聴くよ』
隣を見ると、先輩はニコニコとした笑みを浮かべていた。俺とメッセージのやり取りをするのがものすごく幸福だ、と。そう言いたげなほど、満ち足りた表情をしているのだ。
だから少しだけ、魔が差してしまった。
『好きです』
トンと、メッセージを送る。すぐに俺はポケットにスマホをぶち込み、目の前にあるパソコンへと向かう。
先輩は隣で「んんっ」と咳払いをしているが、そんなものは無視だ、無視。
……クソ。今日は空調の設定温度が高いんじゃないか? 顔が火照ってきた気がするぞ、クソッ。
「子日く──」
「休憩時間は終了ですよ」
「ふふっ、はぁ~いっ」
先輩もポケットにスマホを突っ込み、それから立ち上がった。
「なにか飲む? 淹れてくるよ」
「なら、コーヒーをお願いします」
「ん、了解っ」
先輩が、俺の背後を通る時。
「──僕も好き」
そう、囁いたものだから。
……俺は、空調の設定温度を猛烈に下げたくなってしまった。
ともだちにシェアしよう!