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続 5 : 9
兎田君は僕の右手首を見た後、豪快に笑い始める。
「ハハハッ! ハーッハッハッ! クッ、ハハッ!」
いくら嘲笑を何度も向けられていたとしても、こんなに大袈裟なくらい大笑いをする兎田君を見るのは、さすがに初めてで。
「少し言い寄られただけで手首を押さえているくせに、トラウマを克服してきたって? 他人からの好意が怖いくせに、ネズミ野郎が好きだって? クッ、アッハハハッ! そいつは傑作だなァッ! ハハハッ!」
「……えっ?」
「ほら、見ろ。ヤッパリ俺様が言った通りだ。テメェのそれはただの【喜劇】だろうが」
右手首が、痛い。その理由は単純明快で、右手首を掴む僕の左手が全く手加減をしてくれていないからだ。
「囀るんじゃねぇよ、馬鹿野郎が。恋愛ごっこが楽しすぎて慢心しちまったのか? だから俺様みてぇな悪い奴に、その無防備な喉笛を食い千切られそうになってんじゃねぇのか? 妄想と現実をごっちゃにするのは感心しねぇぞ、ウシ?」
「兎田、くん……っ?」
どういうこと、だろう。今までの兎田君はいったい、なんだったのか。
おそらく青白い顔をしているであろう僕を見たまま、兎田君はニヤリと笑った。
「あぁ、そうだ。テメェの心と手首の痛みを落ち着かせるために、一応教えといてやるよ。……俺様がテメェの名前を憶えたのはな、ウシ。【テメェのことが誰よりも一等、心底嫌いだから】だよ」
「……っ」
その笑みは、普段の冷徹な色を帯びていて。
「善人ぶってるくせに、結局のところテメェはいつまで経っても【偽善者】の枠組みから出られねぇ。ネズミ野郎を好きだなんだと言い『強くなる』と言いながら、自分が持つ【トラウマ】を掲げて弱さを正当化してる。……俺様はな、ウシ? テメェのそういう愚か極まりないズルくてダサいところが最高に嫌いなんだよ。……嘘くさい笑顔を貼り付けていた、あの日。テメェと初めて出会ったあの日から、ずっとな?」
──普段以上に、残酷な笑顔だった。
「善人の仮面をはめるのは、そんなに気持ちがいいのか? 笑顔を纏うと、宝くじ相当のいいことにでも当たるのかよ? 結果が【トラウマを植え付けられる】ってオチじゃ、随分と傑作な笑い話だよな。……なぁ、ウシ?」
「ぼ、くは……っ」
「なんだよ、笑えよ? 言ったろ、これは喜劇だって。それとも、ネズミ野郎でも呼ぶか? アイツなら血相変えて飛んでくるぞ? テメェと違って、アイツは正真正銘ヘンタイレベルの【善人】だからなぁ?」
「ッ! やっ、やめてよッ!」
子日君の名前を出されて、馬鹿にされて。ようやく僕は、ハッとした。
「僕は、ただの……ただの、臆病者だ。善人なんかでも、偽善者なんかでもない……ッ。ただの、弱い男だ……ッ。だから、僕は、僕は。子日君は……ッ」
なにが、言いたいのだろう、僕は兎田君に、なにが言えるのだろうか。……子日君に、どう顔向けをしたらいいのだろう。
言葉に詰まった僕を見て、兎田君は短く、ただただ嘆息。
それからすぐに、兎田君は腹の底に溜まっていたなにかを重く吐き出すかのように、呟いた。
「──だから俺様は、テメェが心の底から大嫌いなんだよ。向上心も持たねぇクソ野郎が」
「──ッ!」
兎田君が、目に見えて僕を糾弾している。
それなのに僕は、なにも、言えなかった。なにかを言えるはずが、なくて。
僕は兎田君に、なにも……なにも、言い返せなかった。
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