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続 5 : 10

 ──右手首に毛布が触れていただけで、嘔吐を繰り返した朝もあった。  そのくらい、僕にとって【あの出来事】は酷いもので。……強く、醜く、僕の心をズタズタに引き裂いた。  ……子日君を襲おうとした、あの日。あの日の僕は、どうかしていた。  異動して、新しい環境に少なからずのストレスを感じていたのは認めよう。だけど、たったそれだけの理由であんなことをするほど、僕は落ちぶれていないつもりだ。  それならどうして、部屋に招いてくれた子日君を襲おうとしたのか。……理由は、どこまでいっても【弱い僕】にあった。  新しい環境でのストレスは、必然的。仕方のないものだし、誰だって感じるものだ。  だけど、違う。僕が感じたストレスや不和は、そんなものだけじゃない。  少し高い声で、僕を呼ぶ女性。必要以上に距離を縮めて話されると、それだけで右手首を掴んでしまった。  歓迎会でも、そう。僕はただ同僚としての挨拶をしたかっただけなのに、どうしてプライベートの話をされなくてはいけないのか。連絡先の交換を求められたり、二人きりの二次会に誘われたり……。あの場は、僕にとって地獄のようだった。  そうなることを、僕は少なからず予感していたのかもしれない。だから僕は強引な手法だと気付かないふりをしながら、子日君を歓迎会の会場に来させたのだから。  案の定、子日君のそばは天国のようだった。彼だけは僕を見ず、僕に素っ気なくしてくれたのだから。  二人きりで飲み直そうと誘われた時は、正直に言うと驚いた。身勝手だとしても、僕は子日君に【期待】していたから。その【期待】を、まさか裏切られたのかと思って。……勝手に僕は、子日君を警戒してしまった。  だけど、違ったのだ。彼は僕との関係性を断絶するために、僕を呼んでくれた。  しかも、他の誰でもない僕のために。彼は僕のためを想って僕を誘い、そして僕を振ろうとしてくれたのだ。  それがあの時の僕にとって、どれだけ嬉しくて。……どれだけ、救いだったか。子日君はきっと、僕が言わない限り気付かないだろう。  だから僕は、子日君を襲おうとした。安心できて、嬉しくて……。そんな子日君を僕のものにして、ずっとずっと【僕に関心を持たない子日君】を僕だけの人にしたくなったから。だからこそ僕は、彼を強引な方法でものにしようとした。  だけど、それはどう考えても間違いだ。僕にとって安心できるという理由だけで人を傷つけては、なんの意味もない。それこそ、僕が【好意】を恐れる原因となったあの出来事と、なんの違いもないのだから。  ……それから、子日君とはいろいろなことがあった。  交際を始めてからも、子日君は優しいまま。僕を誰よりも想い、僕のことを一番に優先してくれて、他のなにを反対の天秤に置かれても、傾くのはいつも僕側。  ──たとえ、反対側に乗せられたものが【子日君自身】だったとしても。 「なんで僕、こんなに情けないんだろう……」  場所は、いつぞやと同じく職場の男子トイレ。僕は個室に入り、用を足すつもりもないのにその場から動けずにいた。  兎田君に現実を突き付けられ、どうしようもない吐き気をスッキリとさせた後。吐瀉物を流した僕は頭を抱えながら、ただただ蹲る。  情けなくて、情けなくて。数十分前の自分を殴れるものなら、殴り飛ばしたい気分だった。  なにが『トラウマを克服できている』だ。子日君の次に慣れているはずの相手──兎田君に迫真の演技を向けられただけで、こんなにも醜い姿を晒しているというのに。 「……帰ら、なくちゃ」  僕は終業後、すぐに兎田君の仮眠室へと向かった。その際、子日君には『お疲れ様』と挨拶はしたし、今は繁忙期でもなんでもない。だからきっと、事務所には誰もいないはず。  僕は個室から出て、すぐに顔を洗った。……頼りない顔をしている男の、情けないことこの上ない顔を。

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