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続 6章【先ずは好きだと言わせてくれ】 1
──あれは、俺の聞き間違いだったのか。
そんなことを思いながら過ごすこと、二週間。俺は事務所で作業を中断しつつ、眉間に皺を寄せていた。
『僕が傷付けてしまった彼女に、近いうち会いに行こうと思うんだ』
先輩が言っていた、彼女とは。当然、あの女社長さんだ。
先輩は、その人に会おうとしている。自分のトラウマを、清算するために。
本音を言えば、行かないでほしい。……だって、どう考えたってバッドエンドしか見えないじゃないか。誰が好き好んで、恋人に『血だるまになってこい!』と命じる?
……いや、悪い。確かに俺も、先輩のトラウマをドチャドチャに踏み荒らした実績がある。しかも、二回だ。分かっている。だから、そんな目で見ないでくれ。
本音を隠し、もう少しマイルドに我が儘を言わせてもらえるのなら。……先輩に、ついて行きたい。
そうすれば、最悪の事態が引き起こされる可能性は激減する。対峙する相手は女性だが、俺は先輩のためなら女子供にも手を出すだろう。申し訳ないが、俺が一番大切に想っているのは先輩だ。
だから、俺が一緒なら先輩を守れる。これは使命感とか自惚れではなく、俺が【先輩を愛しているからこそ】守り抜くことができるのだ。
……だが、分かっている。先輩は一人で、その女性と会わなくてはいけない。俺が一緒にいては、なにも変わらないだろう。
──先輩が抱えている問題は、恋人である俺にも関係があるとしても、やはり【先輩の問題】だからだ。
以上の点から、俺は次なる先輩のアクションを待っているのだが……今は、少しだけ幕間に付き合ってくれないか。
俺が今、眉を寄せている理由。それは生憎と、先輩の【トラウマ克服】とは別件で……。
「──最近、四葉サンを中心とした周りの変化が凄い……」
俺の左隣に座った幸三が、どよよぉ~んと落ち込んでいるからだった。
……マジで、なにがあったんだ? この前も『ホモはイヤだ~』とか言っていたが、もしかして兎田主任となにかがあったのだろうか。いや、あったんだよな、分かるぞ。
と言うか、幸三は今『四葉サン』と言ったのか? 下の名前で呼んだよな? なにがあったんだよ、マジで。
椅子の上で体育座りをしている小さな幸三を見て、俺は眉を寄せつつ声を潜める。
「どうした、幸三? まさか、いじめか?」
幸三の喜怒哀楽が俺の知り合い至上最も起伏の激しいものだとは分かっているが、それにしたってこれはなかなかだ。このくらい落ち込んでいる幸三は、そうだな。……映画館で、買ったばかりのポップコーンを移動途中で全て通路にぶちまけた日以来、か。
幸三は膝に顔を寄せたまま、ポソポソと呟いた。……ん? よく聞こえないぞ。ワンモアプリーズ?
俺が「聞こえなかった。もう一回頼む」と言うと、幸三はもう一度、俺の問いに対する答えを呟いてくれた。
「実はオレ、四葉サン専属の営業マンになっちゃったんだ」
「いじめ以上かッ!」
「あっ、いや。それは全然いいんだけど」
「感覚が麻痺してるじゃねぇかッ!」
以前までは先輩が兎田主任専属だったらしいが、それは先輩と兎田主任が同期だからだ。
しかし、今の営業部には兎田主任と仲のいい人がいない。より厳選するのならば、兎田主任を怖がらない相手がいないのだ。
ゆえに、一番の下っ端であり且つ先輩の後任である幸三に白羽の矢が立ったらしい。それはもう、ブスブスと。
だが、どうやら幸三的にそれはいいらしい。俺としてはできれば交代制にしていただきたい話ではあるが、幸三にとってそれは全然いいみたいだ。
「ちょっと四葉サンと色々あったんだけど、さ。それから、一週間後……」
専属の営業マンに任命される以上の大事件、だと? 俺は思わずゴクリと、生唾を飲み込んだ。……ん? 今、唾を飲み込む音がふたつあったような──あっ、先輩だ。元祖【兎田主任のサンドバッグ】も、幸三の話が生唾を飲み込むくらい気になっているらしい。そうだよな、気になるよな。
さて。続く、幸三の言葉は……。
「──『作りすぎたから食べて』って言って、手作りのお弁当を毎日オレにくれるようになったんだ……ッ! オレ、そういうドジな人って結構ツボなんだよぉ~ッ!」
「──計算された失敗を『ドジ』とは言わないぞ、幸三」
なんとも、微笑ましいものだった。
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