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続 6 : 13

 弁論大会で幸三に負けたものの、やはり先輩は先輩だ。営業部の元エースとして培った腕は、落ちていないらしい。契約書をサラッと眺めつつ、俺はもう一度だけ息を吐く。  チラリと、契約書から先輩へ視線を向ける。すると俺の隣で、先輩はゆるりと笑みを浮かべていた。 「でも、本当に良かった。なんて言うか『肩透かし』って感じはするけど、うん。……彼女と会う前よりも、断然スッキリしてる」  この言葉は、本心だ。俺への気遣いから出た空元気などではなく、先輩の偽りない本音だろう。 「ありがとう、文一郎。ここで、待っていてくれて」  証拠に、先輩の笑顔は……いつものように、綺麗なのだから。  なぜだかその顔を直視できなくて、俺はすぐさま顔を背けてしまった。……これは、照れとかではない。単純な、後ろめたさだ。 「俺は別に、なにも……」  ただ勝手に不安感を抱き、焦燥感に駆られていただけ。……俺は、なにもしていない。  女社長さんと会うことを決めたのも、実際に会ったのも、全部、全部。……全部、先輩が自分で決めたこと。俺が命じたわけでも、先輩にアドバイスをしたわけでもない。  俺がしたことなんて、ただこの部屋で先輩を待っていただけ。たったそれだけの俺に、その笑顔は過剰な褒美すぎる。  顔を背けた俺を見て、どう思ったのだろう。そこは分からないが、先輩はなぜか口角を上げたままで。 「──ねぇ、文一郎。……僕の右手首、引いてくれないかな」 「──えっ」  柔らかく微笑んだまま、俺にそんな……残酷なことを、頼んできた。  反射的に、背けていた顔を先輩へと向けてしまう。すぐに、微笑む先輩と目が合ってしまった。  つい、先日。俺は二度目の【先輩のトラウマを踏み荒らす】という惨劇を、起こしたばかり。先輩の右手首を掴み、嫌がる先輩に愛を押し付けたのだ。  あの時だって、先輩は怯えていた。嫌がって、拒絶していたのに……。 「こんなこと、君にしか頼めないんだ。……お願い」  それなのに、先輩は。……先輩は、俺に頼むのだ。  ……ズル、い。先輩は、ズルい人だ。  ──そんな言い方をされたら、俺が断れないと知っているくせに……っ。  コクリと、縦に頷く。先輩が望むのなら、俺はなんだって叶えたいから。  だから俺は、鉛のように重たくなった自分の手を動かし始めた。 「……触り、ますね」 「うん」  先輩の右手首に、指先で触れる。弱点に触れられた先輩は前回とは違い、動じなかった。  そのまま俺はそっと指を動かし、手のひらで先輩の右手首を撫でる。それでも先輩は、変わらず動じない。 「……掴みますよ」 「うん。お願い」  撫でたのならば、後は力を入れるだけ。俺は先輩の右手首を掴むために、手を広げる。そしてそっと、先輩の右手首を掴んだ。  ……そこから、後は。 「──好きです、章二さん。大好きです」  ──俺は自分の方へと、先輩の右手首を掴んだまま、先輩を引っ張った。先輩が最も恐れる言葉を、添えて。  これが、例の女社長さんが先輩にしたこと。右手首を掴み、自身の方へ引き寄せ、分かり易く好意を伝える。……これこそ、先輩が最も恐れる行為だ。  俺に腕を引かれた先輩は、ジッと俺を見る。進みもせず、引きもせず。ただ固まったように動きを止めて、俺を見ているだけ。  この間が、怖い。先輩の反応をつぶさに観察しながら、俺は先輩からの答えを待つ。  そして、ようやく。……先輩が、口を開いた。 「──僕もだよ、文一郎。僕も、君が好きだ」  空いていた、左手。先輩はその手を動かし、俺の背へと回した後、俺を引き寄せた。

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