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第3話

 俺は今日もいつものテーブルを視線の端にとらえながらビールジョッキを運んでいた。  今日も日中暑かったせいで客の入りもいい。  このシーズン、いつもに増してスタッフを動員している。 「小坂さん!三番のテーブル、オーダーお願いします!」  後片付けを終えたスタッフが俺に声を掛け、入れ違いに営業用のスマイルを湛えたままテーブルに向かう。  熱せられたコンクリートから上がる熱気にいちいち構ってはいられない。どれほどキツイと感じても客の前で見せないのが鉄則だ。  唯一の救いは、ここが屋上であり、時折ひんやりとした風が吹き抜けてくれることだ。 「――お待たせいたしました。ご注文をお伺いします」  前髪に覆われた額にはびっしりと汗が浮かんでいる。今日を乗り切れば今週のシフトはクリアとなる。  二十六歳にもなってフリーターというのは情けない話ではあるが、大学卒業後に入社した企業が今でいうブラック企業だったことから、俺は企業の一員になることに恐怖を感じ、退社後はアルバイトをして生計を立てている。  俺一人、生きていくだけならば今のままで十分なくらいだ。アパートも古い物件を探して住んでいる。  バイトを終え、帰宅して――あとは何をするでもなくシャワーを浴びて眠るだけ。  時折、行きずりの男と寝ることはあったが、全部相手が持ってくれていたし、考えてみれば俺は一銭も出した記憶がない。  それだけは助かっているなと思うが、その回数の分だけ俺は心に傷を負っている。  根っからの恋愛体質――情や雰囲気に流されてその気になって、結局は捨てられる。  そんなことを繰り返していれば、さすがに恋愛に関して臆病にもなってくる。  オーダーを取り、カウンターで階下にある店へと内線で連絡を入れると、ドリンクを作り始める。  生ビールはビールサーバーを使用し、簡単なカクテルや酎ハイくらいならばその場でスタッフが作ることになっている。  俺がグラスを用意して、炭酸水を冷蔵庫から取り出していると、スタッフの一人が俺に耳打ちをしてきた。 「また来てますよ。小坂さん指名で」  チッと大きく舌打ちし、用意したグラスを彼に渡して、オーダー票も一緒に託した。 「悪い!これ、お願いしてもいい?」 「あ、はい」  快く引き受けてくれた彼に任せ、俺は額の汗をおしぼりで拭うと、足早に彼――夏生の元へ向かった。  長い足を組み、実に爽やかな顔で俺に手を振る夏生に、やり場のない怒りが湧いてくる。  忘れようとしている相手の方から執拗に距離を縮めてくることほど面倒な事はない。  それが嫌いな相手ならばキッパリと断れもするが、少しでも情を持ってしまった相手であれば無下に出来ない。  いっそのこと、ビアガーデンのスタッフを外してもらおうかとも考えたが、マスターたっての人選に文句は言えない。 「お待たせしました。何か?」  テーブルの上にはすっかり空になったジョッキとつまみの皿があった。  そして彼の前には、いつもオーダーする鮮やかなフルーツアラモードが置かれていた。  透明なガラスの器に盛られたフルーツは、こんなビルの屋上でもリゾート地にいるかのように涼やかで、その向こう側にいるスーツ姿の夏生が酷く場違いに見える。  彼はスプーンを片手に、満面の笑みを浮かべていた。 「お疲れ様。今日も忙しいみたいだね」 「ええ…。まぁ……それなりに」 「はい、これ!食べてっ」  目の前に差し出されたスプーンの上に乗っていたのは、わずかなジェラートとパイン、ラズベリーとチェリーだった。 「は?」 「食べて……。はい、あ~ん」 「ちょ、ちょっと待ってください!ここはそういう店ではないので」 「知ってるよ。でもね、小坂君に食べてもらいたい」   突然の暴挙に出た夏生に、俺は困惑しつつも羞恥を覚えていた。  決して客の数は少なくない。仕切りも囲いもない場所で、しかも誰からも見えるような状況で客と店のスタッフがイチャつくことは許されない。  そもそも、俺と彼はたった一度だけ体を重ねただけだ。 「何……考えてるんですか。失礼させていただきます」  カッと熱くなった頬を隠すためにわずかに俯きながら、出来るだけ冷たく言い放つ。  そんな俺の姿を見た夏生は素直にスプーンを引っ込めると、代わりに上着の内ポケットから名刺入れを取り出し、そこから自分の名刺を一枚取り出した。  すっと俺に向かって差し出された名刺にどう対応しようかと困っていると、彼は小さく息を吐いて言った。 「――明日、花火大会あるだろ?一緒にどうかなって。この裏に待ち合わせの場所と時間書いてあるから」 「え…?あの……俺、そんな気ない……」 「来てくれないかもしれない。でも、ちょっとだけ期待したいんだ」  自嘲気味にふっと笑った彼の睫毛が微かに震えた。  いつも自信に満ちていた彼とは全く違う――切なくて、どこか儚げで、俺は息を呑んだ。  唇を噛んで、テーブルに置かれたその名刺を指先で引き寄せると、彼は視線をあげて微笑んだ。 「ありがとう……」  たった一言、そう俺に告げた彼は嬉しそうに溶けかけたジェラートを口に運んだ。  実に美味しそうにフルーツを食べる口元をじっと見つめ、この唇でキスをされたことを思い出す。  啄むようなキス……。舌で口内を蹂躙するも強引さはなく、優しく心地よいものだった。  トクン……。  心臓が急に大きく跳ねて、俺は名刺をエプロンのポケットに捩じり込むと、慌てて彼に背を向けた。  カウンターに向かって歩きながら自分の唇にそっと指を押し当てる。  ここ数日、夏生への想いが大きくなっていることに気付いてはいたが、それを見て見ないふりを決め込んでいた。  絶対に悲しむのは自分――。  そう何度も言い聞かせて過去の男を振り返る。  思わせぶりな言葉で……。何度も愛を囁いて……。  全部、全部、嘘だった。  その度にバイトで稼いだ金を貢がされたり、酷い別れ方をしてきたのだ。  夏生がどんな仕事をしていて、どんな性格で、どんな所に住んでいるのかなんて何一つ分からない。  そんな彼に恋心を抱くこと自体間違っている。  臆病になった分、警戒する術を覚えたはずなのに……。 「――さん!小坂さんっ」  不意に耳に入った声にハッと我に返る。 「どうしたんですか?顔色悪いですけど……」 「あ、あぁ……平気。ちょっと暑くて」 「大丈夫ですか?休憩入ります?」  不安げに俺を覗き込んできたスタッフに作り笑いを浮かべて、俺はよく冷えたミネラルウォーターをグイッと煽ってから仕事へと戻った。

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