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第4話

 花火大会の当日――。  偶然にも俺は休みで、その日に限って友人から一緒に出掛けようと誘われた。  乗り気ではなかったが、夏生が本当に待ち合わせの場所に来ているのかということも気にはなっていた。  こういうやり方はズルいと分かっている。でも、相手の気持ちを確かめるには、時に小悪魔になっても構わないだろう。  夏生から貰った名刺はジーンズのポケットの中に入っている。  フリーターな俺でも聞いたことのある有名な商社の名前と“専務取締役”という肩書が書かれた立派なモノだ。  彼からの誘いを承知していながら、友人と共に夜空に打ちあがる色とりどりの花火を見上げていた。  雲が多く、薄暗い空に乾いた音を轟かせて開く大輪の花は一瞬で、すぐに視界から消えてしまう。  それがまるで俺の心の中を映し出しているようで、すっと目を逸らした。  輝かしく美しい物を受け入れようとしないどんよりとした空――。  俺よりも年上で、上質なスーツを着ている事は誰の目にも明らかで、それなりに地位のある人間だ。そんな夏生が周囲の目を気にすることなく、気さくに俺を呼び出し、ジェラートが乗ったスプーンを差し出した。  俺が拒絶した時の悲し気な顔が今も脳裏を掠める。  もしも、夏生の想いが純粋なものだったとしたら……。  胸がキュッと締め付けられ、息が上手く出来ない。 「――智也?何、ボーっとしてんの?」  隣りから不意に名を呼ばれビクッと肩を震わせた。  気が付くと先程まで打ちあがっていたスターマインは終わり、頭上には煙で白く濁った空があるばかりだった。  それが最後の演目だったことにも気づかずにいた俺の頭の中を埋め尽くしていたのは、煩わしいとしか思っていなかった夏生の笑顔だった。 「雨、降りそうだから急いで帰ろうぜ」  自分たちの周りにいた観客も、いそいそとその場を離れていく。  皆、急激に雲が風に流され、厚くなり始めた空を見上げながら家路につく。最寄りの駅はもう混雑が始まっている事だろう。 「智也?」 「あ、悪い……。ちょっと、考え事してた」 「メイン道路は混雑して動けないから裏道抜けて行こう」  俺は一瞬戸惑い、すぐに足を向けた。  この裏道の入り口の角にある小さな神社の入り口――そこは夏生との待ち合わせの場所だった。  花火大会が終わったこの時間、もう彼はいないだろう。  そもそも、俺が来ないと分かった時点で帰っているはずだ。  人の波に逆らうようにメイン道路を斜めに横切り、裏道へと入るところに出る。  ポツリ、ポツリ……。  小さな雫がTシャツの肩を濡らしていく。我慢していた空がついに泣き出した。  その雨は次第に雨脚を強め、あっという間に足元を濡らした。  なぜだろう……友人が俺の手を掴んだまま離さない。  彼はこんな男ではなかったはずだ。 「――おいっ」  違和感を感じて声を掛けるが、彼は振り向きもしない。 「おいっ!手ぇ離せよ」  半ば力ずくで小さな神社の前まで引き摺られるようにして来た。入口にある朱色の鳥居は色褪せ、石の階段の間にも雑草が生えている。  その傍らに佇む人影に視線が釘付けになった。  雨を凌ぐ屋根などは何もない。でも、そこに人待ち顔の長身の青年が一人立っていた。  紺色のポロシャツにベージュのチノパン。足元は爽やかな白のスニーカーを履いている。 「――夏生、さ…ん?」  急に降り出した雨に動じることなく、家路につく人々の波に視線を向けて誰かを探している。  それはきっと――俺だ。  みるみる色濃くなっていくチノパン同様、彼の栗色の髪もボリュームを失い、いつもは見えている利発そうな額に幾筋も張り付いている。  スッキリとした顎から水滴を滴らせてわずかに目を伏せた表情は、諦めとも哀しみとも見えた。  その理由を作った張本人がすぐそばにいる。しかし、この友人の手を振り払って彼の元に駆け寄ることが出来なかったのは、彼を傷付けてしまったという罪悪感と新しい恋へと踏み出す勇気のない俺の迷いからだった。  日中熱せられたアスファルトに大量の雨が降り注ぎ、白い靄が上がる。  足元に絡みつくように蒸気が上がり、湿度が一気に上がっていく。  俺は通り過ぎる人々に突き飛ばされそうになりながらもグッと足を踏ん張り、強引に裏道へと向かう友人の足を止めた。 「――離せよ」 「智也?」 「お前……どういうつもりだよ?これっておかしいだろっ!もしかして……裏道に連れ込んで俺をレイプするつもりだったのか?」 「そんなこと……っ」  明らかに動揺が見て取れる友人の顔に、俺は彼の手を力任せに振り払うと、それ以上何も言うことなく背を向けて走り出した。  頬に雨の滴とは明らかに違う熱いモノが流れ落ちていた。  泣きたくないって思っていたはずなのに、涙は流れてしまった。しかもこんな不本意な形で……。  信用していた友人の裏切り、そして何より俺を苦しめたのは夏生の存在だった。  何も始まっていない。それなのに俺は――失恋した。  やっぱり夏なんて嫌いだ。悲しいことばかりが増えていく。  何人もの肩にぶつかり、そのたびに震える声で「すみません」と呟く。  でも、本当に謝らなければならない相手……それは夏生だ。  最初に俺に声を掛けたのは下心があったから。でも今は違う――と思いたい。  たった一度体を重ねて、互いの温度を感じて……。  あの優しいキスは俺に魔法をかけた。そう……夏の恋を恐れない魔法。  しかし、俺自身でその魔法を無効にした。  そして――大切なモノを失った。  人目を憚ることなく泣きながら電車に乗り、俺はアパートに帰った。  それからずっと……。あの雨の中で俺の姿を探す夏生の姿を思い出しながら泣き続けた。  声を殺し、肩を揺らして、こみ上げる嗚咽を我慢することなく枕に顔を埋めて泣いた。  俺の心が耐え切れずに流した涙はあの空と同じだ。  華やかな花火はもう上がることはない。  冷たい雨粒とどんよりと曇った空が、大輪の花を一瞬にして呑み込んでいく。 「夏生……さ、ん」  震える声で何度も彼の名を呼ぶ。  満面の笑みでジェラートを差し出す彼が浮かんでは消える。  あの笑顔は俺だけに向けられた最高の花火だったはずだ。 「ごめん……。俺、素直に……なれなくて、ごめん……」  聞こえない声、届かない想い。  俺の恋は、また涙と共に終わった。

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