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第5話

 あの日から夏生はビアガーデンに姿を見せなくなった。  その原因を作ったのは俺だって分かっている。  彼の名刺は今も財布の中に入ってはいるが、こちらから連絡を取るなんておこがましい真似は出来ない。  それに、おれの勝手な思い込みだったとしたら、彼の方にも迷惑が掛かると思っていたからだ。  恋愛体質からくる片想い……。  俺は恋に落ちやすい故に突っ走って物事を考えて、一人自己完結してしまうフシがある。  それで今までに何度も失敗を繰り返している。  二十六歳にもなって子供染みた自分の性格に苛立ちを覚えながら、彼がいつも座っていたテーブルを見つめた。  直後は”たまたま…“。しかし、姿を見せない日が増えていくにつれ、俺の中に不安が募っていった。   『来てくれないかもしれない。でも、ちょっとだけ期待したいんだ』  彼の期待は”ちょっと”だけではなかった。  そんな彼を裏切り、下心しかなかった友人の誘いを優先させるなんて……今となっては言い訳をする余地はない。 「はぁ……」 「――小坂さん、またタメ息出てますよ」  ビールサーバーの前で大きなため息をついていた俺を目ざとく見つけた後輩が、即座に反応する。  俺はちらっと視線を向けただけで何も反論することはなった。  夏生の事に関して何かを口にすることすべてが自分への言い訳に聞こえるからだ。  さんざん泣き明かした翌朝、俺はやっと自分の気持ちに気付いた。  もう一度、会いたい――と。  否定はしない。俺は夏生を好きになっていた。  しかし、その願いは叶うことはなかった。 「最近、来ませんね……あの人。小坂さんご指名するお客さん」 「リーマンだろ?どこかに飛ばされたんじゃないのか?」 「あぁ……あり得ますね。長期の出張とか」  納得したように顎に手を当てて何度も頷く後輩に、俺はビールを注いでいたジョッキを押し付けた。 「――これ、十二番テーブル」 「あ、はいっ」  嫌と言わせない迫力があったのか、彼はジョッキを両手に持つといそいそと出て行った。  カウンターに片手をついて、ウォーターサーバーにグラスを押し当てて水を注ぐ。  それを一気に飲み干して、ふぅっと息をついた。  体の中でわだかまったままの熱がグルグルと渦巻いて今にも発狂しそうだ。  それをたった一杯の水でそれが鎮められるかと言えば、気休めにしかならない。  簡易的なシンクに空になったグラスをそっと置く。  わずかな水滴をつけるそれが俺自身のようでキュッと唇を噛んだ。  満たしてくれる何かを待ってる。満たしてくれる誰かを待ってる……。 「――小坂さん!八番テーブル、オーダーお願いします」  感傷的な思いはフロアスタッフの明るい声に払拭される。  弾かれたように顔をあげ、俺は自分の頬をパンパンと二度叩いて気合を入れると、引き攣ったままの頬を出来るだけ緩めてニセモノの笑顔を作る。 (俺の笑った顔ってどんな感じだっけ?)  それさえも思い出せないほど、俺の体も心も空っぽになっていった。  あと数日で八月が終わる。  そして、このビアガーデンも閉店する。  まあ、ここがクローズしたところで俺が無職になることはない。ビルの一階にあるイタリアンレストランに通常スタッフとして戻るだけだ。  開放的な屋上とは違い、間接照明で薄暗く、シックな雰囲気を重視する店内。  そこに納まれば、俺の想いも冷めていくだろう。夏が見せた幻、暑さに惑わされた感情。  夏生の笑顔も記憶の片隅に追いやられていく……。 「――客足、全然落ちませんね?」 「今年は暑いからな。九月になってもまだ暑さは続くらしいし……」 「マジっすか?あの狭い店に戻るのヤダなぁ……俺」 「エアコン効いてるだろ」 「――あ、そうか!そうっすね……快適かもっ」  能天気な後輩に付き合っていられないと各テーブルに目を配る。  皆、楽しそうにジョッキを掲げている。  飛び交う笑い声が俺の耳にはくぐもって聞こえてくる。  他愛のない世間話や、上司への悪態、恋人との惚気……その会話を素直に受け入れられない自分がいた。  脇に下ろした拳を握りしめて、照明に照らされた空を見上げた時、いきなり後ろから腕を掴まれて身構えた。 「――おい、小坂」 「な、何だよ……。驚かせるなよ」 「アイツ、来たよ……っ」 「アイツって?」 「毎日通ってたスーツだよ。いつものテーブル、お前を指名してる……」  バイト仲間の中では比較的仲のいい彼にそう言われ、俺は自分の耳を疑った。  ゴクリと唾を呑み込んで、緊張で乾いた喉を潤した。 「――行ってくる」  ギャルソンエプロンのポケットからメモ用紙とペンを取り出しながら、何度となく訪れたテーブルへと向かう。  指先が震え、ペンを落としそうになったが何とか持ちこたえた。  遠目からでも分かる上質なスーツに身を包んだ背中……。  すっと息を吸い込むと、無理やり口角をあげた。 「いらっしゃいませ。お久しぶりですね。――ご注文はお決まりですか?」  伏せていた目をゆっくりと上げ、俺を見つめた夏生は力なく笑った。 「――ビールとチョリソーの盛り合わせ」 「フルーツアラモードは……後でお持ちいたしますか?」  俺の問いに面食らったように目を見開いた彼は、少し俯いてから「あぁ」と短く答えた。  心臓がトクトクと音を立てている。それを気付かれたくなくて、俺は素っ気なくテーブルを離れた。  また素直になれない……。  もう自分の気持ちに偽りはなかったはずなのに……。  歩き出した足を止めて、もう一度彼を振り返る。  取り出した煙草に火をつけて深く吸い込む姿は初めて目にする光景だった。 (煙草……吸うのか)  俺の前では一度もなかった。吸わない俺に気を遣ってくれていたのか、それとも……。  カウンターに戻り、つまみのオーダーをかけてから、急いで冷蔵庫の中のジョッキを確認する。  はぁ~と長い息を吐き出して、その場に座り込んだ。  そして小声で何度も言い聞かせる。 「これが最後、これが最後の……チャンス」  高鳴り続ける想いをデザートまで何とか堪えようと、俺は胸元にグッと拳を押さえつけた。

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