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麗し芳し宵闇亭:02 ゼノ

 朝から焚いていた香は、部屋の隅々まで行き渡り、俺の鼻の機能をこれでもかとぶちのめす。  蒸せるほどに煙い。だが、これくらい焚かねば、ギャリオの鼻は無効化できない。  古くからレルドが愛用している薬香の内、香りを感じる器官を一時的に制御するものだ。無理を言って買い取ったこの香を焚くのは、ギャリオの特殊な性質を封印するため――では、無い。単純に顔を見て話をしたい、と思うが故。ただそれだけの理由だ。 「相変わらずマメかつ阿保が付くほど真面目な旦那だ」  暴言ともとれる言葉を口にする男は、今日も一言どころか三言程多いがまあ、許す事とする。  ギャリオの言葉はすべて愛情が所以だ。そうでなければ、言葉を知らぬ種が、わざわざ声を出すなどという面倒なことをするわけもない。  伝えようとして声にする。その労力をありがたく思う。だから俺は苦笑いで、椅子を勧める。 「茶を、と言いたいところだが、おまえは飲めんだろう。久しぶりの歓迎すべき客人だというのに、ハルイの料理を振舞えないのが勿体ない」 「しゃーねーよ、漂うだけでもやべーっつのに、口に入れるなんざ自殺行為だ。ま、この薬香が充満してりゃあ食えねーこともねーよ、味なんか半分くらいわっかんねーだろうけど」 「息災だったか?」 「見りゃわかんだろ、息災だよ」  ……見れば、と言われてもおまえの顔はマスクの下だろう。  そう思ったのがバレたようで、苦笑ひとつ漏らしたギャリオは、ぎっちりと顔を覆うマスクを取った。  ギャリオは寝るときでもマスクを外さない。  彼がマスクを外すのは、匂いがない場所。それか、鼻が利かぬ香で満ちた場所のみだ。  久方ぶりに見た顔は、相変わらず……いや、おまえそんな疲れた顔だったか……?  まあ、前回の花狩りの際は手が空かないとかで直接買い取りには来なかったし、その前は俺が白館に呼び出しを食らっていた。  何期ぶりかわからない対面だ。顔色だけで『いつもどおりだな!』と背中を叩くわけにもいかない。  憂鬱と苦虫を同時に噛み締めたようなげっそりとした顔は、常より元気そうなのか具合が悪いのか、判断がつかない。  ……ギャリオが溌剌と笑う様など想像がつかないので、まあ、この顔がデフォルトなのかもしれない。とりあえず本人が息災だ、と言っているので、それを信じることにしよう。  素顔のギャリオは容赦なく顔を顰める。  すう、っと大きく息を吸いこみ、ひどく面倒くさそうに吐く。 「っは~~~ぁ……相変わらず鼻にキツイ香だな。ま、オレは息しやすいしたまには匂いから解放されたいし、ありがてーとは思うけどよ……つーか旦那まで鼻潰す必要はなくね?」  ギャリオは生まれつき、匂いを敏感に感じ取る。  ただ鼻が良いだけではない。相手の体臭から、その思考すらも嗅ぎ取ってしまう、そういう生き物だ。  特殊な嗅覚潰しの香をもってしても、ギャリオの鼻は完全には潰せない。俺の隠しておきたい本心も見栄も、どうせギャリオには丸見えになる。  だから、というわけではないが、なるべく思ったことをそのまま口にするように努めていた。黒白の種族は嘘を嫌うが、ギャリオもまた、嘘を嫌う。 「顔を見て話すにはこうするほかないだろ。外ではおまえの顔は見えん、香を焚けばお互いに鼻はつぶれるが目と口は曝け出せる。俺の我儘だ、香に関しては気にするな」 「そのたいそう生温いお言葉、嘘じゃねーから嫌だよまったく。しっかしあの料理人は随分とイイ感じの青年だなァ。もとより宵闇亭の奴らはネアカが多いが、ありゃあ逸材だ。言葉に乗っかる嘘は他人を思いやるモンばっかだ。相当面倒くせーコミュニケーション文化にもまれた奴だろうな」  唐突にハルイを褒められ、思わず言葉に詰まる。  そういえば俺はあまり、アレを外には出さない。俺が普段話す者は基本、部下か灰の種族だ。ギャリオのように対等に、ストレートに感想を言われることはあまり、ない。  自分のことではないのに、なぜか少しくすぐったく思う。 「あとなんか新しい奴居たなぁー知らん間によく増えたもんだ。ま、新しいメンツとの交流はまた後だ。とりあえず厨房、ありがたく使わせてもらうわ。部屋は前と同じとこ借りていいのか?」 「ああ。今はハルイの部屋になっているが、しばらくは別の場所に移動してもらう」 「って名目で寝台に引きずり込むのな。ふうん。マジで人並みに恋とかしちまってんのな」 「…………俺の事情はどうでもいい。とにかく、例年通り仕事を頼みたい」 「おう。頼まれてやっから、こっちもアンタに頼みたいことがある」 「――ミノトが、少々足を引きずっている件か?」 「流石、よく見てらっしゃる。さすが娼館の黒館様ってとこか」 「茶化すな。ここでは比較的よく見る症状だ。手伝いをやるか?」 「いや、いい。おあつらえ向きの部屋と薬香だけ寄越してくれ。後はこっちでどうにかするわ」  ……そう言うことならば、深くは口出ししないようにしよう。  ギャリオは馬鹿ではない。むしろ博識で、思慮深い。ミノトが足を引きずる理由も、その解消法も、勿論知ってのことだろう。  他人の心など見えない俺でも、ギャリオの心情を慮ることくらいはできる。しばらく会わないうちに、どうも、なにか踏ん切りがついてしまったようだ。 「何かあったのか?」  思わず不躾に出た疑問だったが、何が、とは聞かれなかった。言葉の裏を嗅ぎ取る男は、ただ目を細めて笑う。 「べっつに。なんもねーよ。強いて言やぁ、そうだなぁ……西の黒館が召喚獣なんかに骨抜きになっちまって番になりそうだ、なんて大ニュースに爆笑して感化されちまった事くらいかね」 「…………俺のことはそんなに噂になっているのか……?」 「表向きはご法度な話題として滅茶苦茶回ってるな。耳ざとい奴なら大概は知ってるネタだ。ま、公式に夫婦になろうってんじゃないならお咎めはねーだろうけど、そのうち白館の頭から呼び出し喰らうかもな~」 「……嫌だ……」 「ふはは! アンタが物事を嫌がる時は、本当に心底嫌がるから気持ちいい!」  どんな褒め言葉だそれは、と思ったが、ギャリオは本当に楽しそうに笑うものだから何というか、どうでもよくなってため息一つで許してしまった。  まあ、楽しいのならば、笑うことができるのならば、それでいい。泣くより、苦しむより、ずっといい。 「はー……笑ったし仕事すっかぁ。とりあえず花狩りの方だな。それにしてもすげー量まで育ったもんだ。農家仕込みの肥料はすげえなぁオレも分けてもらおうかなぁ」 「いやあれは、話に聞くには農家というより、馬鹿が本気を出しただけのようだが……」 「香油の継ぎ足しも例年通りやっとくよ。量はいつもどおり?」 「ああ。いや、青の香油を、一つ多めに瓶に分けてほしい。個人的なものだから量はいらない」 「はいよ。……なに、嫁との閨事で使うの?」 「使わん。単にハルイが気にいってる匂いなだけだ」 「なんだ、シンプルに贈り物じゃん。それなら香油じゃなくて香水にしとくか? そっちの方が使い勝手いいだろ」 「ああ……まあ、そうか。では香水で……」 「なー、召喚獣に恋しちゃうって、どんな感じ?」  ふ、と視線を感じ、思いの外真摯な瞳とぶつかる。  普段は、ほとんど見えないギャリオの目だ。  ギャリオのマスクを作ったのはダールトンだった。鼻と口だけ塞げばいいものを、ギャリオは顔の全面を覆うようにとダールトンに頼んだらしい。  世界の匂いを、他者の感情を拒否する全面のマスク。それを取ったギャリオは、普段は隠している表情をさらけだしている。  口の端は笑っているが、とても冗談で流すような雰囲気ではない。 「――べつに、心を動かされた相手が召喚獣だろうが何の種族だろうが、俺は関係ないと思っている。たまたま、相手がこの世界の者ではなかった、それだけだ。ハルイが灰の種族でも、白の種族でも、同じように言葉を交わす関係だったならば、俺は恋をしただろうさ」  ……言い切ってから、なんというか、その……今のは少し、こう、言い過ぎたのではないか、と痒くなってくる。  本心だ。勿論本心だが、もっと他の言葉があったのではないだろうか。いや、本心なんだが……。  俺のもだもだとした感情を嗅ぎ取るギャリオは、真剣なまなざしなどまるで幻覚だったかのようにニヤニヤと笑っている。 「なんだよー恥ずかしくなんなら恥ずかしい言い方すんなよーばかかよ愛おしいかよ」 「言うな……おまえ、鼻利いてるじゃないか……」 「香なんざ多少紛らわす程度だーっつの。それでも外より、ずっと楽だ」 「……外がキツイなら、戻ってきてもいいんだぞ」 「嫌なこった。オレはいまの生活、結構気に入ってんだよ」  じゃ、仕事するから。  そう言って、マスクをしっかりと付け直したギャリオはひらひらと手を振って、さっさと執務室を出てしまった。  出過ぎたことを言ってしまっただろうか。  いや、しかし……戻ってくるのなら、俺は本心から歓迎する。もとより香油は宵闇亭に欠かせないものだ。通貨が財にならないこの世では、装飾品ともうひとつ、金持ちがこぞって集めるものがある。  それが、香りだ。  香油、香水、薫香。すべて、高価な値を付けられ、どの種族にも好まれる。ギャリオの敏感な鼻をもとにつくられる香油は特に評判がよく、召喚獣としては例外的に職業として『調香師』を名乗ることを許されていた。  勿論先の言葉は、ギャリオが優秀な調香師だから働いてほしい、という意味ではない。一人の召喚獣として、もし、外の世界が騒がしく疲れると言うのならば……そう思った、だけなのだが。 「……気に入っているというのなら、まあ、いいか」  本人がそう笑うのだ。  それならば俺が口を出す事など何もない。  おとなしく言われた通り、薬香と部屋の用意をすることにして、とりあえずは執務室の窓を開ける。  外は黒く、ランタンの灯がゆるりと庭を照らす。見下ろす庭の花は、半分刈り取りが終わったというところだろうか。  真ん中にいるのはユサザキ……いやあれは、ユツナキだな……? あいつ、あんなところで何で寝ているんだ……? 「……たまには、手伝うか」  どうせ今の俺は鼻が利かない。むせ返るような花の香も、今なら全く気にならないことだろう。しばらく服に花の香が付くだろうが、皆も同じだ。どうせ宵闇亭の隅々まで花臭くなる。黒期の花狩りは、そういう行事だと諦めている。  仕方ないなと腕をまくり、階段を下りる。ふ、と厨房の方が気になったが……あまり、干渉しすぎても、その、ほら、あれだ。うん。……うざいと思われると嫌だしな……。  何を気弱な、と俺の背中を叩いて笑うギャリオはいない。  仕方なく、自分で勝手に息を整え、後でハルイにミノトの感想を聞いておこうと思うことで、醜い嫉妬心を押し込めた。

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