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三十三
山波という家は代々、息子の名前に「高」の字を入れることになっている。
だから俺は藤高という名前がつけられた。
山波らしい名前だとそう言われていたから俺は自分の名前がそんなに嫌いじゃなかった。
名前っぽくないと言われることは多く気にすることは多かったけれど決して嫌いじゃなかった。
「レイ、ちゃんと振ることもなく宙ぶらりんにして悪かった」
倒れているレイのかたわらに屈んで起き上がらせてやる。
それだけで幸せだというように微笑む元友人の姿は悲しい。
どんな状況でもいいから俺を近くに感じたいというのがありありと伝わってくる。
「俺は瑠璃川水鷹が好きだ」
いまさらな俺の告白に「そうですか」と淡々と返すレイはわかっていたんだろう。
俺たちが友情の枠におさまらないとわかっていながら恋人同士になるわけでもないからこそ今まで納得がいかなかったはずだ。
「さっきな、水鷹は俺のことを好きな自分が一番大切だって答えた」
「前会長は笑ったでしょう」
「レイも水鷹を笑うか」
「笑います。でも、フジくんはそんなところが好きなんですね」
泣き笑いの表情でレイが「ずるい」と口にする。
「いくらだってそばにいることが出来て好き勝手なことを後先考えずに言えるから、だから」
「そうかもしれないが、それだけでもない」
水鷹が俺の代わりとして発言しても誰にも届かないと俺はどこかで分かっていた。
それでも、発言することの責任をとりたくなかったから俺は逃げて押し付けていた。
積極的に人を傷つける行動をとらないという嘘をきちんと認める。
嘘と張りぼての多い時間を俺は生きていた。
「水鷹は俺にお願いやわがままをいくらだってするけど、俺に何かを強制したことは一度だってない」
たとえば感情が外に出る見苦しさを俺が嫌えば水鷹が相手を怒鳴って威嚇する。
俺の感情の代行をするようにわかりやすく怒って見せる。
転入生に対する態度がもっとも分かりやすかっただろう。
俺の感じる不快感を水鷹はずっと代弁してくれていた。
怒りたいけれど人に怒りを見せるのは醜態だと感じるプライドを水鷹は当たり前みたいに「オレが代わりにやっておくから気にしないでいいよ」と守ってくれる。
気分が悪くて吐きそうな時もそれを吹き飛ばすような道化を演じて俺を冷静にさせてくれる。
全部が全部、俺のためだけのことじゃなかったとしても水鷹はバカだけどバカじゃない。
俺が息苦しくならないように気配りをしてくれる。
「俺が全部……」
「藤高、もういい。言わないでいい。認めないでいい。藤高は何も悪くない」
水鷹は俺の口を手でふさいでそう言った。
表情をとろけさせ、雰囲気を和らげていたレイが水鷹に敵意を向ける。
「藤川いい加減にしろよ。藤高に謝罪させる、それがおまえの愛か? それともなんだ? もう好きでもなんでもないから自分の傷をいやすために藤高を利用すんの? 藤高が全面降伏で謝罪してそれを受け取ってご満悦ですか?」
「僕はそんなつもりじゃ」
「じゃあどんなつもりでいるんだ。ふざけるなよ」
俺は水鷹よりもレイの感覚の方が一般的で正しいと思う。
レイは俺と水鷹に弄ばれたような状況にいる。
俺と水鷹が気づいていなかったとはいえ友愛ではなく恋愛関係になれたのなら今まで抱いていた彼らは本当は必要なかったということになる。素直に思いを伝えあっていたなら彼らが傷つくことはなかった。
俺を好きで水鷹を好きじゃないレイなんかは防げた犠牲だと言える。
だから、水鷹の言うように俺が悪くないなんてことはない。
俺が悪い。
そんなことはずっと前から知っている。
俺は俺のために人を利用してきた。
いろんな人間に利用され続けたように俺は他人を利用してきた。
たとえば母。
俺は母に利用されたという感覚がぬぐえない。
初恋の相手の子供がほしかったと相手に許可をとらずに俺を妊娠出産。
しかも、やり方がゴムに穴をあけるという騙し討ち。
俺を認知させて相手と結婚したかったわけじゃない。
夢見がちな少女である母に悪意はなく単純に相手の容姿が好みだから自分の子供も初恋の相手に似ていると嬉しいと思ったらしい。
到底、理解も共感も出来ない考えだが世間知らずな母は俺が腹にいることを知りながら父からの求婚を受け入れて結婚した。
愛して大切にされる結婚生活を夢見ていたが父は仕事が忙しくなり構ってくれない。
結果として趣味にあっちこっち行くが満たされない。
幼い俺は思ったほど憧れの相手に似ていないと不満が溜まり離婚を決意した。
すれ違いを自覚していた父はまだ若い母の将来のことを考えて離婚を決意するが困ったのが俺のこと。
二人とも、自分が育てないといけないと強く思ったりしない。
けれど、激しく疎んじられていたわけでもない。
だからこそ父と母のどちらと暮らすのか俺に決めさせようとした。
善意だったのはわかるが俺はその選択自体を否定した。
本音を言えばたぶん父についていきたかったのかもしれない。
でも、母のことだって嫌いだったわけじゃない。
勝手で頭が足りない人だと思ってはいたけれど優しく無邪気だった。
感情的で自分の欲求に素直だった。
全然違っているけれど箇条書きで性格を書き出すと水鷹に似ているかもしれない。
究極的に甘え上手で自分本位なところがある。
人生を舐めてはいても悪意はない。
だからこそ、水鷹に呆れても幻滅して見捨てようとは思えないのかもしれない。
母に憧れの相手の代替品として見られるのは気分が悪いし納得がいかない。
俺を通して誰かを見る母と暮らすことなんか出来そうにないと思った。
けれど母を選べないという消極的な理由で父を選ぶべきじゃないと幼いながらに俺は判断していた。
母とのつながりのために俺を育てると口にした父を憐れみながらも飲み下せない感情がただただ胸の中にたまっていく。
山波の家に生まれたから俺の名前には「高」の字がつく藤高になった。「高」の字は決定事項として「藤」はどこから来たのかという話になり俺は遺伝子上の父と顔を合わせることになった。
彼の名字は富士という。彼の子だとすると富士藤高なんて冗談にもならない字面の悪さになることも受け入れがたいが母が俺に山波として外せない「高」の字に「フジ」をつけたこともフジくんなんて呼んでいたことも大変薄気味悪い。
正確な言葉は思い出せないが俺は両親を批難した。
反抗期だったで済ませてほしい黒歴史だが自分の中の一番醜い部分であったこともまた自覚している。
山波の人間でもないのに「高」を名前に入れ、父を誰なのかあらわすように「フジ」の音を入れ込んで、俺は何者になれるのか、どう生きればいいのか、何を選べばいいのか、分かるわけがなかった。
そんな中で富士さんは優しかった。
親よりも親らしいことを教えてくれた気がする。
自分の血を残す人間がいると思わなかったと俺を歓迎してくれた。
家に帰りにくいと言えば富士さんは自分の家の合鍵をくれて塾の代わりに自分を使えと家庭教師を買って出てくれた。
心が広すぎてビックリする。
どっしりとしていてあたたかい姿は見た目のスタイリッシュさに反していた。
母が惹かれたのはそういうところなのかもしれない。
富士さんに山を感じるから山波である父と母が結婚したと言うならくだらなさに反吐が出た。
毎日遅くまで家にいる俺を嫌がることのない富士さん。怪我で休職中だから気にしないでいいと言う富士さんは優しすぎて心配になるレベルだった。母が頭からっぽな女じゃなく性悪女だったら骨の髄までしゃぶられそうだ。
夜に料理を作りに来る恋人は男で勝手に仕込まれたとはいえ息子の俺がいるのは気まずいのである程度の時間でファミレスに移動する。
基本的には富士さんの家にいて両親のいる家には寝に帰るだけという生活を繰り返した。
転入生と会ったのもこのあたりの時期だろう。
あのころは心のどこかで父の姓である山波にすがっていた。
フジの音がすこし怖くて馴染まなかったから名乗る資格がない気がしながらも山波と呼ばれることに安心を覚えていた。
まだ自分が父の子である気がした。
自分の名前にうんざりしていた日々の中で両親は弟が生まれたと笑顔で俺に報告してきた。
母の実家の方にすでに生まれた俺の弟がいるという。
俺の精神状況が落ち着くまで黙っていたという謎の気遣いを見せた。
母が旅行で家にいないことが増えたのは俺が富士さんの家に行く率が高いことへの当てこすりではなかったらしい。
息子の反抗期を目のあたりにして精神的にへこんだ母を父が支えた結果、上手くまとまったのは分かる。
一時は離婚なんて言いながら復縁したのはめでたいことかもしれないが俺は本格的に身の置き所がなくなることを感じた。
結婚する際に母は別に父のことが好きではなかった。
自分のことを好きだという相手を選んで結婚しただけで父でなかったとしても構わなかった。
そこに自分を愛して大切にする人間がいるならそれだけでよかったのだ。
けれど、結婚生活に望んでいた愛がなかったので離婚という話になった。
仕事が忙しいことは母の前では理由にならない。
母の弱さや勝手さに見切りをつけることなくそばにいた父の粘り勝ちだといえばそれまでではあるが、それで俺にどうしろっていうんだ。
『フジくんはどっちについて行きたい?』
富士さんが恋人と同棲するから引越しするという話題のときに母はまた俺に選択を迫った。
俺を抜いて血のつながった三人でまとまったあたらしい家族の中に入るのか、富士さんと恋人との同棲空間に割り入るのかと聞いてくる。
母は残酷だなんてきっと思っていない。
どっちでも大丈夫だと選ばせてあげている気分なんだろう。
そして、俺はその選択からも逃げて病室にいた。
神社の階段からまた落ちたという。
記憶がないというか以前の離婚騒動の話がフラッシュバックして混乱していた。
また吐血のように口の中を切って血を吐いたというから神様は俺が嫌いらしい。
二度に渡る俺の階段芸は母の母性愛に火をつける結果になった。
富士さんには渡さないと力強く宣言したので俺は富士の姓を選択した。
選択肢からは選択できないが相手の望みの逆張りは楽だった。
自分の性格が屈折して固定化したことを理解した瞬間だ。
富士さんが安心して恋人と同棲できるように俺は全寮制の中学に行った。
いっしょに暮らしたくなっていた俺の決断に母は駄々をこねたが無視した。
富士藤高でも山波藤高でも両方とも腹が立つほどバランスが悪い。
弟は高二(こうじ)らしいが絶対に高二(こうに)としか呼ばれないので高次(こうじ)に改名してやりたいが基本的に山波と関わりたくない気分だった。
富士の姓を名乗ったり富士さんの代役でパーティーに出席したりしてもその席で母が俺は自分の子だから山波の子だと謎の主張をして空気を台無しにしたりする。転入生によって学園内にもたらされた空気と同じものがパーティー会場なんかで発生していた。
母の子であるのは確かだから山波の子ではなく母の旧姓である朝比奈の子だと言えば俺の見た目も含めて周囲の納得は簡単に得られただろう。最初からずっと母はズレた人だった。
最終兵器のように富士さんが母を言い包めて騒ぎを起こさないようにさせたがある程度の位置の人間、前会長なんかは俺の家庭環境がどうにかなってしまっているのをたぶん知っている。
俺が学園内で親切な人間を演じていたのは名字に対するツッコミを一切受けたくなかったからだ。
好意的に対応した人間に悪感情を持つのは難しい。
同時に相手の触れたくない話題を見なかったことにするぐらいの優しさも発揮する。
俺の名前が富士藤高なんていうどこから見てもからかう理由にしかならないものであっても茶化したりしない。
藤川零、レイは藤高の藤と藤川の藤がいっしょだと見てわかる共通点に最初に触れたクラスメイトだった。
だからある意味少し他の生徒たちよりも距離は近かった。
「僕は、僕たちはフジくんに何も望んじゃならないって言うんですか」
「オレ以外の誰かと付き合うか生徒会長になるかの二択を藤高に突きつけて、それを突っ返されると謝罪の要求なんてどうかしてる」
「瑠璃川水鷹、あなたがいなければ、あなたさえいなければ」
そう、きっと水鷹さえいなければ俺は誰にでも都合のいい適当な優しい人間を演じていられた。
水鷹に引っ張られる形で夜遊びをすることはなかった。妥協の末に会長をすることになっただろう。
「藤高に藤高以外を求めるな」
しゃがんでいる俺を後ろからもたれかかるように抱きしめたまま水鷹はレイに告げる。
「会長をやらない藤高のことも認めろ。おまえたちが押し通そうとしている愛は全然まったく愛じゃない。一致団結して一人の人間を生徒のトップにして藤川も含めた偽物の愛に浸りきったバカは満足かもしれない。自分が愛している人は立派なんだと誇らしいだろうな」
俺の後ろに顔があるので水鷹がどんな顔でこれを口にしているのか分からない。
電話で聞いた時もどんな顔で親衛隊たちに言い放っていたのか気になったが今回はレイが気まずそうな顔をしたので見てみたいが顔をつかまれているので振り向けそうにない。
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