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第4話
「いい加減、起きてくださいよ。会社、遅刻しちゃいますよ」
「――えっ」
肩を揺り起こされ、ほづみは目を開けた。
寝起きのぼんやりとした視界の中に、落ち着いた青色の壁紙と、シトラスの香りを携えた遼の顔が飛び込んでくる。
「おはようございます。はい、とりあえず水でも飲んで目を覚ましてください」
状況が把握できず、きょろきょろと周囲を見やる。遼は「やれやれ」と嘆息して、水滴のついたペットボトルをほづみの頬に押し当てた。
「朝ご飯は食べます? 珈琲だけにしておきますか?」
「ここは、お前の家か?」
体を浮かすと、遼が手を伸ばし支えてくれた。
「覚えていないんですか? まあ、ほづみさんすっごく酔っていましたもんね。覚えていないのも当たり前、ですか?」
耳元で、くすっと笑う遼に心臓が震えた。
「――あれは? 夢、だったのか?」
「あれって? どんな夢を見たんですか?」
すぐ側にある綺麗な顔を押しのけ、ほづみは「なんでもない」と呻いてペットボトルを受け取った。
「うるさい。黙ってろ」
しゃぶられて絶頂したなんて、死んでも言える訳がない。今すぐにでも、消しゴムをかけて跡形もなく消し去りたかった。
(どうして、あんな)
もともと、性衝動は低いほうだ。
キャバクラで女性に挟まれたとして、興奮など一切していない。
欲求不満だったとは思えないし、例えそうだったとしても、相手が遼だなんてあり得ない。
(……悪夢だ)
思い出すと、羞恥心で手が震えた。
遼の体臭を近くに感じて、息が苦しくなる。
「ねえ、ほづみさん。ありがとうぐらい、言えないんですか? 千鳥足の貴方を抱えて家までつれてきて、スーツ脱がせて寝間着を着せてあげて、ベッドを譲ってあげたんですよ」
遼は恩着せがましく「ソファで寝るのは新鮮だったなぁ」と、聞こえる程度の小声で言った。
「ほら、いつまでもだらだらしていないで、出勤の支度してくださいよ」
「うるさいったら、うるさい。俺は、泊まらせろなんてお前に頼んだ覚えはないぞ」
「覚えていなくたって、結果的に僕に保護されているんですから。小学生だって、建前上でもお礼の一つぐらいは言えるとおもいますけどねぇ」
ああ言えば、こう言う。
年齢差など一切気にせずにずけずけと嫌味を言ってくる遼を、ぎろりと睨み付ける。
「やれやれ。もういいですよ、別に。ともかく、早く起きてくださいよ」
ずっと触っていたくなるほどに、肌触りの良いタオルケットがはぎ取られた。
すこしひんやりとした早朝の空気に晒され、ほづみはぶるっと身震をする。
「借りてきた猫のようですねーって、ほづみさん。それ、どうしたんです?」
遼の視線が、ほづみの下肢へと向けられた。
「……し、知らない」
しっとりと濡れたスウェット生地を指差され、ほづみは唇を噛みしめて耐えるしかなかった。
◇◆◇◆
批難する遼の視線を無視して、車窓を流れる景色に思いを馳せる。
どんよりとしたほづみの胸中と相反して爽やかな青い空は、次第に嵩を増してゆくビル群によって、上へ上へと追いやられてゆく。
「やっぱり、朝の通勤ラッシュは辛いですね」
「絶対、謝らないからな」
「いいですよ、別に。新しい下着を探していたら、一本電車を乗り過ごしちゃっただけですもん。怒っていないですよ」
ほづみは「うるさい」と、口の中で唸った。
袋から出したばかりの新品といえど、自分のものではない下着の違和感は吐き気さえしてくる。
(しばらく、酒は控える。絶対にだ!)
硬く心に誓い、ほづみは遼の視線を避け続ける。
よりにもよって、遼に口淫されている夢を見るなんて。ほづみはイライラと拳を握った。まったくもって経験のない性行為だし、興味があったわけでもない。
すくなくとも、遼をそういった対象で見た覚えは一度もなかった。新参者の、口の煩いマーチャンダイザー。
ハーフを思わせる背の高さと顔の良さは、デザイナーとしてのほづみの美的感覚を十分に満足させるだけのものがある。喋ってこなければ、そこそこ良好な関係で居られたのかも知れないと思うほどに好みだ。
(せ、性的に好みというわけじゃあないがな)
容姿は好きだが、いかんせん、仕事において馬が合わない。
数え切れないリテイクは、嫌がらせを受けているのではと疑いたくなる。
そんな相手に、とんでもない醜態を曝した。
他人のベッドの中で、夢精するなんて信じられない。自慰ですら滅多にしないほづみにとって、アイデンティティが崩壊しかねない衝撃だった。
思い出せばいますぐ、ネクタイで首を絞めてしまいたくなる羞恥心がこみ上げてくる。ほづみは涙目になりながら、遼をちらっと見やった。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた電車内でも涼しい顔で、スマホを弄っている。
てっきり馬鹿にしてくるかと思ったが、意外にも冷静に対処されてしまった。怒りもせず、動揺するほづみをバスルームまで引っ張っていって、体を洗っている間にタオルと換えの下着とシャツとスーツを用意してくれた。
さすがに、礼を言わないわけにもいかない。
朝食をもそもそと食べながら、ほづみは蚊の鳴くような声で礼を言うと、遼は笑って「気にしなくていいですよ」とだけ答えた。
(気にしないわけないだろ、あんな、あんなとんでもない夢)
ぱんぱんに乗客が詰め込まれているせいで、普段よりも揺れが酷い。
ブレーキが掛かったところで、ほづみは他の乗客に押されてよろめいた。
「あぶないですよ、ほづみさん」
ふわっと、シトラスの香りに包まれる。
「大丈夫だ、離せよっ」
「無理ですよ。駅に着くまで、動けませんって。観念して、僕に掴まっていてください」
意外にもがっちりとした胸板に寄りかかるような形で抱きかかえられ、ほづみは目を白黒させた。
頬をくすぐるのは、うなじで軽く結ばれた遼の髪だ。
ひといきれに生臭さえ感じていた車内の空気が、すべて遼の香りに切り替わり、思わずほっとしていたほづみは、いけないいけないと首を振った。
(くそっ、なんなんだ、こいつ)
泣き出したくなるのを堪え、ほづみは遼のスーツを掴んだ。
皺になってしまえと、おもいっきりしがみついてやると、何を思ったか遼はほづみを抱きかかえたまま、くるっと、反転し壁に押しつけた。
「に、にいみ?」
「どうしたんです? 脅えた顔をして。もしかして痴漢ですか?」
「脅えてなんかいない! ……勘違いするなっ。痴漢でもないからな」
かっとなって声を上げるも、集まる周囲の視線にほづみは顔を赤くして俯いた。遼は「ふぅん」と笑って、ほづみの腰に回した腕を引いた。
さらに密着する体の感触に、ほづみはこめかみにじんわりと汗を滲ませていた。
「少しは、離れろ。離れてくれ」
「満員電車ですよ。無理ですって。僕だって辛いんですから」
カーブにさしかかるたび、に触れあう体。スーツ越しであっても、気にせずにはいられなかった。腰を支えてくる腕の感触も、気恥ずかしい。
「……離れろよぉ」
思わず出てしまった泣き声に、遼が目を丸くした。驚く顔を目の当たりにして、ほづみはやってしまったと顔を強ばらせる。
「大丈夫ですから、もうすぐ、降りる駅ですよ」
子供をあやすように撫でてくる遼に、ほづみはふるふると首を振った。手をはね除けたいのに、満員電車でろくに身動きができない。
(くそっ、はやく、到着してくれ)
たまらなくなって目を閉じても、前髪を揺らす遼の吐息に今朝の悪夢をどうしても思い出してしまう。
綺麗な顔が、自分のものを美味そうにしゃぶる光景は、倒錯的で罪深い。
遼を汚したのか、自分が汚されたのか。夢なのに、確かな快楽を覚えていた事実は、ほづみの理性に揺さぶりを掛ける。
自覚のないところで、遼のことを性的な目で見ていたのだろうか。
(ありえない。あるわけがない)
経験が少ないといっても、男に特別な感情を抱いた覚えはない。相手が遼だなんて、なおさら考えられなかった。まだ、付き合いの長い氷室のほうがあり得る。……とは言いたくないが、遼でなければもはや誰でも良い。
「……くそっ」
夢の中であったとして、一瞬でも気持ちいいと感じた自分が気持ち悪かった。ほづみは鼻と口を手で覆って、息を浅くしながら、ひたすらドアが開くのを待ち続けた。
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