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第7話

 腰からずり落ちかけたスウェットの紐をぎゅっと絞って、ほづみはタブレットパソコンの電源を入れた。  休みのメールを入れたからか、返信メールで心配してくれる氷室に「明日は必ず出る」と返して、スマホを放り投げた。  お気に入りの豆を挽いた、入れたてのコーヒーを啜る。  ほっと、吐息を零せばいつも通りの朝だった。  登校する学生たちの賑やかな声を聞きながら、ほづみは一切の躊躇いもなく、描きかけのデザインを白紙にした。  昨日までは、確かにとても良い出来だと思っていた。  今までと違う、大人の女性のためのジュエリー。  ほづみと遼が初めて組む新シリーズ《Virgin》。無垢からの脱却を込めたテーマだと、言っていた覚えがある。  紙袋の中に残っていたシュークリームを囓り、ほづみはペンを取った。  どこをどうすれば、遼の目指すところに届くのか、ほづみにはまだわからない。  けれど、今までのものは違うと感じるようにはなっていた。  確実な第一歩だ。夢でさんざんいじくり回されたせいだとは、思いたくはないが。 「なんで、あいつは俺が好きなシュークリーム屋を知っているんだよ」  囓ったシュークリーム生地から、とろりとあふれ出してくる、バニラビーンズでざらりとした触感が特徴的なクリームを吸い出す。  疲れた脳に、糖分は最上の褒美だった。 「《Virgin》。四十歳の天木志保里を、処女にするデザイン」  長い間患っていたコンプレックスを美しく飾るための、ジュエリー。 (たしかに、今までのものじゃあ駄目だな。悔しいが、子供だった)  真っ白になったモニターを見つめ、ほづみがまさに最初の一筆を入れようとしたときだ。  呼び鈴が部屋に鳴り響く。 「誰だ、朝早くから!」  ほづみは苛立ちをどうにか押さえ、インターフォンのモニターのボタンを押した。 「おはようございます、ほづみさん」  爽やかな遼の声に、ほづみは反射的にボタンを押して通信を切っていた。 「なんで、来るんだよ!」  うんざりと、分厚い扉を背中越しに睨む。 「体調が悪いと聞いたので、出社前に様子を窺おうかと思った次第です」  少しこもった声が、悪びれる様子もなく答えた。  病欠を使ったが、本当の理由は遼に会いたくなかったからだ。  やけに生々しい夢を見せられた後で、どういった顔をして会えば良いのかわからない。  あの淫らな夢を、遼は知っているのか知らないのか。  確かめたいが、どうやって話を切り出して良いかも分からない。面と向かって「俺を抱いたのか?」なんて、言えるわけがない。  何をしても、墓穴を掘りそうだったが、何もなかった素振りを装うのも難しい。だから、せめて一日おけばなんとかなるだろうと思ったのだ。 「メールでいいだろ! なんで、わざわざ来るんだよ。明日は、きちんと出社するから、お前は俺なんて気にしないで会社に行け。やることは、たくさんあるはずだ」 「たしかに忙しいですけど、ほづみさんの顔が見たいんです。甲斐甲斐しいでしょ?」 「迷惑だ!」  ドア越しに帰ってくるふてぶてしい返答に、ほづみは頭を掻きむしった。  顔を合わせたくないが、ドアを開けるまで、遼は立ち去らないだろう。  そんな気がする。 「ああ、くそったれ!」  仕方ない。近所迷惑になるのはゴメンだと理由をつけ、ほづみは足音を荒くしてドアへと歩み寄っていく。 「ほづみさん。二人きりの時だけで構わないので、遼って呼んでくださいよ。いいでしょ」  夢を思わせる台詞に、ほづみはドアノブに手を掛けたまま、固まった。 「嫌だね。新見、お前と俺はただの同僚だ。名前を呼び合う、フランクな仲じゃない」 「キスをしたでしょ? 下着だって、貸してあげました」 「唇を重ねれば、キスになるのか? アレは、事故だ。カウントされない。下着は、新品を買って返すから貸し借りなしだ。つまり、俺とお前の間には何もなかった」  我ながら、子供じみた返しだ。ドアの向こう側で、遼の笑う声が聞こえてくる。 「でも。ただの同僚が、セックスなんてしないでしょ」 「あれは、夢――えっ?」 「ええ、夢ですよ。とても淫らな夢。正夢のような夢。けれど、僕たちにとっては、本当といっても良いんじゃないかな」  ドアの前でたじろいでいると「開けてください」とノックされる。 「お前……本当に、夢魔ってやつなのか?」  強めにノックされるドアに、ほづみはイライラと息を吐き、ドアチェーンをつけたまま鍵を開けた。 「ちょっと、酷いな。そんなに警戒しなくてもいいでしょうに。外してくださいよ、チェーン」 「絶対に、嫌だ!」  外したら、部屋に入ってくる。ほづみは犬歯をむき出しにして、遼を睨んだ。 「怒らないで、ほづみさん。所詮、夢じゃあないですか。それに、僕とのセックス、気持ちよさかったでしょ」 「うるさい! うるさい! な、なんで俺に、あんなっ!」  ドアを閉めようとするが、向こう側からもドアノブを引っ張っているのか、びくともしない。金色のドアチェーンが、ほづみの命綱だった。 「言ったじゃないですか、好きだって」  湿り気を帯びた声に、背筋がゾクゾクと粟立った。 「夢魔とか、そんな絵空事、信じられるかよっ!」 「信じる、信じないは、ほづみさんのご自由に。何なら、夢の中で羽根でもはやしてでてきたっていいですよ。……そういうプレイも、楽しいかもしれないし」  怒りに震えるほづみとは対照的に、いつもどおりの涼しい顔をしている遼は、ご近所さんと爽やかに挨拶までしていた。 「本当は、夢でなく。ほづみさんを実際にこの手に抱きたいんですけどね」 「とにかく、黙れ。……人に聞こえる」  視線でチェーンを外すよう促してくる遼に、ほづみは渋々手を掛けた。 「お邪魔します」 「招いちゃいないぞ」  今すぐ帰れと睨むが、遼は素知らぬ顔でダイニングへと入っていった。 「おや、お仕事中でしたか。あぁ、コーヒーの良い匂い。僕にも一杯もらえませんか?」 「居座る気か?」 「ほづみさんが入れてくれないなら、キッチン借りてしまいますよ」 「入ってくるなよ! 大人しく座っていろ」  ミルクと砂糖を要求する遼に背を向けて、ほづみはお湯を沸かし始めた。 ◇◆◇◆ (……どうしてだ。どうして、俺の家がオフィスになっているんだよ)  ソファーに座り、ペンを走らせる小気味いい音を背中に聞きながら、ほづみは入れ直したコーヒーを啜り、タブレットパソコンに向き合っていた。 「このコーヒーとっても美味しいですね。ほづみさんが入れてくれたからかなぁ」 「ただのコーヒーだ。気持ちの悪いこと、言うなよ」 「つれないなぁ」と苦笑する遼に中指を立て、ほづみはモニターに向き直る。  どうしたって落ち着かないが、だからといって意識していると思われるのも癪だった。 「どうです? いいアイデアは浮かびました?」 「さあな」  話し掛けるなと思いを込め、素っ気なくあしらった。  ほづみの胸中を汲んだか、遼も黙って仕事に向かい始めたようだ。  生活音が響く室内には、互いの息遣いと、小鳥のさえずりのような作業音が絡み合ってゆく。 「天木志保里の起用は、俺への当てつけか?」 「まあ、半分は」  怒鳴りそうになるも、ほづみはすんでのところで耐えた。 「……で、残りの半分は?」 「ほづみさんのためですよ。まあ、つまり全部ほづみさんのためです。小学校での失恋、いい加減に克服して新しい恋を、僕と始めませんか? 体の相性はいいんです。心なんて後からどうにでもなりますし」 「冗談じゃあない。男と寝る趣味はないぞ」  ぱたん。とノートパソコンが閉じる音に、ほづみはびくっと肩をふるわせた。 「……いいですねぇ」  背後に立ち、手元を覗き込んでくる遼から甘い吐息が漏れる。  ゾクゾクと痺れる背中は、きっと、気味が悪いからだ。ほづみは気にしていない素振りを装い、モニターへと視線を向けた。 「この曲線、最高にエロティックですよ。ぞくぞくしますねぇ。この指輪に合わせる宝石は、やっぱりダイヤかな。《Virgin》、結婚指輪として展開するのも悪くないなぁ」  無遠慮に耳へと入ってくる熱を帯びた低い声は、どうしても、夢での情事を思い起こさせる。 (わざとやっているのか、こいつ!)  腹に肘鉄を食らわせたいのをぐっと押さえ、ほづみは作業を続けた。 「どうしたんです? 昨日と全然違うじゃないですか」 「気のせいだ」 「誤魔化せると思ってます? ずっと、誰よりもほづみさんの作品を見てきた僕が、感づかないわけないでしょ」 「嘘をつけ」 「嘘なんかじゃ、ないですよ」  遼は両手をほづみの肩に置き、続ける。 「僕ね、ほづみさんと仕事がしたくて《ダム・ブランシェ》の内定を蹴って《sparkle》にきたんですよ」 「ば、馬鹿なのか、お前!」 《ダム・ブランシェ》は《sparkle》がひっくり返っても敵わない、国内外でも有名な大手ジュエリーブランドだ。 「ひどいなぁ。馬鹿にするよりも、褒めてくださいよ。《ダム・ブランシェ》よりも、僕は、ほづみさんを評価しているんです。貴方を選んだんですよ」  ほづみは、罵声をぐっと飲み込んだ。  超大手メーカーと天秤に掛けられて、嬉しくないわけが、ない。 「素直に喜んでくださいよ。色男が不細工になって、目も当てられません」 「……うるさいな」  見られたくなくて、ほづみは左手で顔を覆った。 「これ、とても良いですよ。デザインがまとまったら、早速試作品を作りましょう。いける気がする」  ぽんぽん、と肩を叩いて遼はふたたびソファーに戻り、スマホを駆使して関係各所に連絡を入れ始めた。  いつも暑苦しいほど感情のこもった声だが、さらに熱を込めて語る遼の声にどきっと跳ねる胸を撫で、ほづみはコーヒーを口に含んだ。  悪戯されるかと身構えていた肩から力を抜いて、本格的に作業に戻る。  停滞していた企画が、一気に動き出していくのを感じていた。

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