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第8話 遭遇

 その日は、なんだか落ち着かなくて、ずーっとぼんやりしていた。テレビを見たい気分でもなく、スマホもすぐ飽きちゃう。かと言ってこんな話は、高校の友達にだって軽く言えるもんじゃない。煮詰まり過ぎた俺は、夕方近くになってから、病院の中庭に散歩にでかけた。  中庭には、夏の一番暑い時間帯を避けて散歩に来た入院患者がちらほらいた。自販機で炭酸飲料を買い、ベンチに腰掛ける。生温い風が、どこからかヒグラシのカナカナという声を運んでくる。  あーあ、平凡だと思っていた自分の人生が、預かり知らぬ所で波乱万丈だったなんて。人口比率の最も少なくて、ハードモードそうなΩであることは、少なからず俺を動揺させていた。  なんとなくだけど、ずっとβだろうと思っていたから平凡に人生を生きていくつもりだった。それが定期的に来るヒートがあるΩでは、仕事だって休みがしっかり取れないとダメだし、そもそもΩを雇用してくれる会社があるのかさえ分からないし……。  自分の置かれた人生に軽く絶望しつつ、そのまましばらくぼーっとしていたら、「おぉーい、島本さん。今日は調子はどう?」とのんびりした声がふってきた。  見上げるとそこには、缶コーヒーを片手にした真鍋先生がこちらに歩いてくるところだった。休憩中なんだと言って、俺の隣に腰掛ける。プシュと缶を開けてごくごくと喉をならして飲む先生は、なんだか近所にいる大学生のお兄さんのようで、少し笑ってしまう。 「どうしたの?」  ずれた眼鏡を直しながら聞いてくる先生に 「いいえ、なんか総合病院の先生って近寄りがたい人ばっかりだと思っていたから、真鍋先生みたいな先生がいるんだな〜って、、、」 「それって褒めてないよな……?」  と言われて、思わず顔を見合わせて吹き出してしまった。  ひとしきり笑った後、俺は 「ねぇ先生。Ωの人生って大変だよね。運命の番に出会えるかも分かんないのに、毎回ヒートがあってフェロモン出しまくっちゃうんでしょ。運命とか関係なくαを発情させて、自分も訳わかんなくなっちゃう。見ず知らずのやつに噛まれて、人生不幸になる人もいるし。仕事だってまともに就けるかわかんない。ねぇ、Ωってやめらんないのかなぁ~?」  ちょっとおどけて、悲壮感を隠したつもりだったけど、先生にはお見通しだったみたい。  先生は静かに「僕にはね、番がいたんだ」と小さい声で呟いた。「彼女がいたから、全然いいことばっかりじゃない人生も、そう悪くないんだなって思ったよ」  "いた"ってどうして過去形なの。番ったら一生続くんじゃないの?俺の子どもっぽい質問に 「その通り。でも相手が、自分と同じだけ生きるとは限らないだろう」  先生は昔を思い出したのか、少し切ないような苦いものを飲んだような複雑な表情をしていた。  先生の番だった彼女は、研修医時代に入院患者として出会ったそうだ。一目でお互いに運命だと分かった。でも彼女は進行性の病気で余命幾ばくもなくて。それでも先生にとって、彼女と番になるのは当然のことだったみたい。 「彼女はΩでね、番になったとしても、ヒートの時に耐えられないかもしれないと心配したけど、笑って"大丈夫よ"って言ってくれた。1年持たないかもって言われたけど、彼女は3年近く頑張ってくれたんだ。彼女がいたから、何だかんだ言って今も僕はこうして生きていられるのかも」  確かにαやβと違って大変なことも多いと思う。けれど今は、医学が進歩して抑制剤も種類が増えてきている。身体に合って負担が少ない薬が使えるようになっているよ。そして不用意に番うのを防ぐための項を守るカラーもある。最悪、アフターピルも飲めば、悲しい妊娠も避けられるしね。本能ともうまく付き合っていけるように、僕ができることなら何でも手伝うから、そんなに悲観しないで。運命の番に会えたら、ううん、運命の番じゃなくても、島本さんが大好きになれる人が現れたら、きっとこの本能も悪くないって思うかもしれないよ。  僕はΩじゃないから、こんなことしか言えなくて申し訳ないけど。と言いつつ、彼女のおかげでΩの人がもっと生きやすいように、医者として手助けがしたいから今の道に進んだんだと、はにかみながら教えてくれた先生は、お世辞じゃなくとてもカッコよかった。  しばらく真鍋先生と他愛もない話をしていたら、急に空気が変わったような気がした。ピリピリとした感じが伝わってきて、肌が粟立つような。思わず、先生の腕に縋りつくと、先生はある方向を見ていた。  俺もそちらに視線を向けると、な、なんとあのジョシュアがいた。またでかくて黒いサングラスをかけて、白いTシャツに黒いジョガーパンツなんてラフな格好にも関わらず、めちゃくちゃ決まってる。ただ、手にはやたらでかいバラの花束を持ち、どす黒いようなオーラを放つ、明らかにヤバイ奴だった。  「ひぇっ」俺の喉までバカになったのか、声にならない悲鳴しか出なかった。

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