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蜜月、酒に溺れる

 星河一の高級宿、緑泉庵(りょくせんあん)の一等室をぐるりと見渡す。  紗の垂れた奥に寝台が二つあり、天女の描かれた衝立で仕切られている。描かれた天女は今にも動き出しそうなほど生き生きとした表情をしていた。過度な装飾はなく、さっぱりとした内装だが要所要所に細やかな工夫が施されている。  円窓からは月明かりに輝く大河が見えた。ホゥホゥと鳥の鳴き声が響き、すっかり暗い室内に給仕が灯りをつけにきた。 「お食事もお持ちいたしました」 「ありがとうございます」 「こちらに置いておきますね! ところで、もう一人の若君はどちらへ?」 「……さぁ。私が知るところではありません」 「あ、お茶をお入れしましょうか?」 「いえ、結構です、」  しつこいな、と窓辺から振り向いた蓮雨(リェンユー)は、給仕の男がやけに近い場所に立っていることに驚いて目を見張った。 「貴方も、とっても綺麗なお顔をしていらっしゃいますよね。その面布の下って、見せてもらうことはできないんでしょうか……?」  一級宿じゃなかったのか。無遠慮に客に触れようとする店員なんて聞いたことがない。接客も一流、みたいな謳い文句だったがこれのどこが一流なんだ。というか、花仙はどこに行っていつ帰ってくるんだ!  花仙へ理不尽な怒りを抱きながら、鼻から下を覆い隠す面布へと伸ばされる指先から離れようと、後ろに引いた足が壁にぶつかる。そういえば、窓際で外を眺めていたんだった。眉根をキツく寄せ合わせて、男へ嫌悪を浮かべる。面布の内側で、誰にも聞こえないほど小さな声で言葉を囁き、重力に従って降ろしていた手のひらに霊力を集めた。 「全く、ひとりで留守番もできないのか?」  耳元で囁かれた艶やかな低い声に、ハッと後ろを見る。窓枠に体を半分乗り上げた花仙が、瞳を月色に輝かせて微笑んでいた。 「ぁ、哥、哥……」 「うん、ただいま。寂しくて外を見ていたのか?」 「は、い、いつから……!」  喉を転がして笑った花仙は、身軽に窓枠を飛び越えて室内に入ってくる。丁度、蓮雨(リェンユー)と給仕の間に立つように降り立って、面布越しに頬を撫でられた。 「悪いね、旦那。これは俺だけの花なんだ。むやみに秘密を暴こうとしないでくれよ」  朗らかに笑って言うが、妖しく光る月色の瞳に男はゾッと背筋を粟立てて後ろに一歩足を退く。興奮気味に赤らんでいた顔は、サッと血の気が引いて青白くなっていた。 「い、いえ……その、失礼いたしますね、あ、食べ終わった食器は、廊下の棚に上げておいてくだされば時間を見て回収に来ますので、それでは、どうぞ、ごゆっくりとお過ごしください……」  酷く吃りながら足早に部屋から出て行った男に、無意識の内に強張っていた肩の力が抜けた。知らない他人と同じ空間にいるのはあまり得意ではない。良くも悪くも、自分の容姿が目立つのを知っているからなおさらだった。 「どこに行ってたんです?」 「星河と言えば、花の蜜煮だ」 「……は、それのために、わざわざ? てっきり、情報収集か何かかと」 「情報ならある程度集まっただろ。お前が、食べたいかと思って」  透明な瓶に詰められたそれは、灯色に照らされてキラキラツヤツヤしている。特に、今は花が咲いていないから蜜煮も数を少なくして販売をしており、手に入れるのに町の端まで行って来たらしい。  ――確かに、昼間すれ違った蜜煮売りをチラと見たが、別に欲しかったわけじゃない。金も渡されているから、欲しければ自分で買った。ただ、なんとなく、後宮で一度だけ花の蜜煮を食べたことがあって、それがとても美味しかったからそれを思い出しただけだった。 「……仕方ないから、貰ってあげますよ。ほら、さっさと食事にしましょう」  仕方ないから、とかなんとか言っているが目元が柔らかく緩んでいることに気づいていないのだろう。声もかすかに上向きで、明らかに「嬉しい」と言う感情が溢れていた。  ――しかし、油断も隙も無い。ちょっと目を離しただけで余計な虫が一匹二匹くっついているのだから。和やかに会話を続けながら、花仙は後ろ手に印を組むと、人除けの術を部屋の出入り口に展開した。  暴漢に襲われた時の対処法なんて、城で教えてくれないだろう。いざというときのために、武仙に教えを乞うてもらうべきか。けれど武仙の元へ送り出して帰ってきた蓮雨(リェンユー)が筋肉隆々になっていたら悲しいので却下。俺が守ればいいだけか、と自らを納得させて卓子についた。  料理はできないがお茶くらいなら入れられる。母に美味しい茶を飲んでもらうために、侍女頭にお願いをして教えてもらったのだ。食事時、花仙と卓子を囲んだときは蓮雨(リェンユー)がお茶を入れるのが習慣になっていた。いつものように、茶器に手を伸ばしたところ、町で買った酒龜を卓子に置いた花仙。 「せっかくなんだから、こっちを呑もう。呑めないわけじゃないんだろ?」 「嗜む程度になら呑めますけど、貴方こそ呑めるんですか? 呑んでるところ、見たことがないですけれど」 「はは、蜜月酒なら五龜は余裕で呑めるぞ」  口の端を持ち上げた花仙に肩を竦め、茶器ではなく酒盃をふたつ用意した。  めったに酒を呑むことはないが、食事をしながらゆっくりと呑むくらいなら花仙に付き合ってやってもいい。酒に強いのかと言われれば、どちらでもなかった。限界まで呑んだことがないのもある。ある程度調子を整えて、呑みすぎない加減を見極めるのが蓮雨(リェンユー)はとても得意だった。  乾杯して、花仙が一気に呷ってしまうのを見てから、くん、と匂いを嗅いで一口嚥下する。  口内に花の濃厚な香りがぶわりと広がって、舌先にほのかな甘みが残る。のどごしはとろりとしていて、まさしく花の蜜だった。 「美味いだろ?」 「思ったよりも、ずっと呑みやすいですね」 「黒州自慢の地酒だからな。白州とか、そっちの酒は妙に塩辛くって口に合わないんだ。これが気に入ったなら、藍州の酒も口に合うだろうよ」  大河で採れる魚料理や、漬物に舌鼓を打ちながら集めた情報の整理を行う。と入ったものの、酒が入ってしまったので簡単な情報共有くらいだ。明日、行く場所はすでに決まっているも同然だった。 「――雲霊山(うんりょうざん)、でしたっけ」  ほんのりと、頬をかすかに赤らめながらつまみの落花生を指で弾く。卓子から落ちる直前で手のひらで掬った落花生を花仙は口の中に放り込んだ。  まだたった四、五杯ほどしか呑んでいないのにほろ酔い状態の蓮雨(リェンユー)は熱くなってきた体に襟元を緩めて寛げた。生白い首筋に灯りが浮かび、火照った体を影に浮かび上がらせる。  酔ってるな、と自覚したとたんに目が回り始めるのはどういう原理なんだろう。きっと、世界が回っているから回っているように見えるんだ、とか頭の中で考えていることと、口で喋っていることと、別々のことを考えながら蓮雨(リェンユー)は落花生はひとつ弾いた。  ここしばらく、ウワバミ揃いの神仙としか酒飲みをしていなかった花仙は一甕をぺろっと飲み終わって、蓮雨(リェンユー)が机に突っ伏してしまったのを見てから「蜜月酒ってそういえば大蛇ですら泥酔するくらい強い酒だったな」と呑気に思い出した。呑みやすい酒ほど酔いやすい、いい見本だ。  冷たい机に頬をくっつけて、蒼い目だけで花仙の動きを観察(しているように見えるが焦点は合っていない)蓮雨(リェンユー)は、頬を擽る黒髪を何を思ったのか力いっぱいにぐい、と引っ張った。この黒髪が気に入らない。大好きな母上と同じなのは嬉しいけれど、この髪が黒いせいで母はそれ以上に苦労をしてきたんだ。兄皇子にはいじめられるし、皇女たちには虫けらを見る目で見られる。いくら気にしないとは言えど、傷つかないわけじゃなかった。 「……私も、花仙みたいな髪色がよかったです」 「えぇ……? 急にどうした? 酔ってるだろ?」 「酔ってないです。……花仙の目は、とっても美味しそうです」  酔ってるな、とは口に出さなかった。酔っ払いほど、酔ってないと言うものだ。  物欲しそうに伸ばしてきた細い指先を握った。酒が回って、随分と体温が高くなっている。蓮雨(リェンユー)が拒否しないのをいいことに、手を伸ばして赤く火照った頬をつついたり、引っ張って乱れた黒髪を手櫛で直してやったり、好き勝手に触れてみる。  出来物ひとつに頬は柔らかく、いつまでも触っていたいもっちり感。かじったら饅頭のように食べれてしまいそうだ。  蜂蜜色の瞳が美味しそうと言うけれど、蒼い花の瞳のほうがずっと美味しそうだった。遠い蒼穹のようにも、深い水底のようにも見える蒼い瞳。長い睫毛に縁取られて、目尻が少しだけ赤らんでいる。酔いも回って、とろんと眠気に支配された瞳は潤んでいて、飴玉のようだ。薄く開いた、濡れた唇はもっと美味しそうだった。  指先を、誘われるがままに伸ばしてぷるりと赤い唇に触れる。薄く開いた隙間に、ゆっくりと押し込むとコツ、と歯にぶつかった。

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