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救い給うて※
ぱち、と黒い睫毛が瞬いて、口元を抑えて勢いよく立ち上がる。その顔色は急激に色を失って、小さく嗚咽を零した。
「ま、待って、ぁ、きもち、わる……んッ」
喉奥まで迫り上がってきた酸味に、鼻の奥がツンとする。一気に呑み過ぎたか、それとも食べ過ぎたか。加減を調整しながら飲み食いできたはずなのに、蓮雨 は今とても気持ち悪かった。胃の奥がグルグルと渦巻いて、目の前がチカチカする。
吐き気を無理やり堪えながら、けれど黙って座ってもいられない。
「そこの桶に吐いてしまえ。出してしまったほうが楽になるぞ」
「や、いやだ、人前で吐くだなんて」
ぐ、と奥歯を噛み締めて、喋るたびに喉奥からこぼれそうになるモノを無理やり呑み込む。
蓮雨 は第三皇子だ。
人前で嘔吐するなんて考えられなかった。どうにか気持悪さが治まるのを待とうと、目を瞑り、冷や汗をかきながらじっと耐える。眉根が寄って、口元は歪んでいる。呼吸が浅くて、急にどうしたのかと花仙は考える余裕があった。
「――やっぱり、悪いモノは出してしまうべきだな」
「え、なに、やめっ……! ウッ……!!」
部屋の隅に置かれていた桶を取って、蓮雨 の足元に置いた花仙はそのまま背後に回って蓮雨 を抱きしめる。急な圧迫に、風雅な皇子が絶えられるわけもなく、いとも簡単に胃の中のものを桶の中にぶちまけてしまった。小さく嗚咽を零しながら、目尻から滲んだ涙を親指を拭われる。
――一通り、胃の中を空っぽにして胃液しか出てこなくなったが、まだ気持悪さが残っていた。酒に酔った気持悪さとかではない。ムカムカ、もやもやと、胸元や胃の奥がグルグルと気持ち悪い。吐きたくてももう何も出てこないのに、どうしたらいいのか分からなくて視界がぼやけてしまう。
「おそらく、身体がこの空気に慣れてないんだろう」
母の胎の中に居た時から梦見楼閣に来るまで、蓮雨 は他の皇子たちのように外に出る機会が極端に少なかった。母が許可しなかったというのもあるが、そもそも蓮雨 自身が外へ出たがらなかった。第一皇子に無理やり雉狩りへと連れ出されるくらいしか城の外に出たことがない。その弊害が、この体調不良だった。
国の中心にある月下城はこの国で最も尊く清浄で清らかな場所だ。瘴気も穢れも一切なく、常に城勤めの宮廷道士が浄化の術を展開している。そんなところで生まれ育てば、外の空気など汚くて吸っていられるはずがない。楼閣は疑似仙郷だから体調を崩す事もなかった。少し考えればわかることだ。培養液で育った赤ん坊が外で生きられないのと同じように、蓮雨 は外の空気を吸うだけで体調を崩してしまうのだろう。
「ひっ、引きこもってた、私が悪いっていうのか? そんな、そんっ、うぁッ……!」
喉を引き攣らせ、何度も嗚咽を零す蓮雨 に花仙は思案する。強制的に体調を改善させる方法はあるものの、下手をすれば中毒症状を起こしてしまう可能性もあるのだが……まぁ、そうなったときはそれでいいか、とひとり勝手に決めて、青を通り越して紙のように白い顔をした蓮雨 を抱き上げた。
「な、にを、ッ、あ、揺れてッ……!」
「はいはい、すぅぐ楽にしてやるから、大人しくしてろ」
視界がぐるりと回転して、臓腑がヒュッと落下する感覚に息が止まる。
華奢で細っこい体を抱き上げるなんて花仙にとっては落花生の殻を剥くくらい簡単で、垂れた紗を横ながら足を向けたのは衝立の向こう側だった。
固くはないが柔らかくもない寝台に丁寧に下ろされて、まさか看病してくれるのかと驚いた。
冷や汗をかいて、額や首筋に張り付いた髪を整えられる。簪や髪紐を解かれ、帯も緩めてくれる。ほっと、楽な姿勢に息がこぼれた。それでもまだ気持悪さが残っている。この地の空気が合わないんだったら、やっぱり城に戻るしかないんじゃないだろうか。
ひたり、と緩められた胸元に指先が這う。訝しげに花仙を見ると、いつも浮かべている緩やかな微笑はなりを潜めて、この人は笑みを浮かべていないととても冷酷な表情 をするのだと気付いた。
「なに……?」
「いや、楽にしてやろうと思ってな。仙道を極めた者の気はなによりも清浄な気を放っている。そこにいるだけでその場の邪気や瘴気を浄化できる。仙道をかじっているならもちろん知っているな」
否、聞いたことがない。知っている前提で花仙は話すけれど、母は「この力は、かならず阿霖 のためになるわ」としか言わず、詳しい教えをしてくれなかった。
花仙が何を言いたいのか、よく理解せぬままに小さく頷いた。
「それじゃあ、これから俺がやることも、理解できるね?」
幼い子供に接するかのように、柔らかい真綿で包み込んだ声音で諭される。頭を撫でられ、目元をなぞられる。たったそれだけで、強張っていた気が緩んでいく。
不気味なほどに優しくて毒のように甘い花仙に、蓮雨 は尋ねることができなかった。
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