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第3話

 翌日、まだいろいろと不都合の残る体を無理に動かして、石田はいつもより遅めに出勤した。最初に声を掛けてきた橋本(はしもと)から昨日の無断欠勤を窘められ、その次に亜弓から声を掛けられた。 「おはよ。昨日はどうしたんだ?」  そう訊かれ、石田は俯いて顔を赤くした。  佐野秀明に抱かれて体調を崩し、そのまま彼の部屋で寝てたんです。とは言えない。 「よう…あんな痛いことしはりますね…」 「え? 何?」  なんでもないです、と答えながら、小さな呟きが聞こえていなかったことに安堵する。  何がどうまかり間違っても、亜弓に事情を説明する気にはなれない。亜弓も中村を相手に毎晩あんなことをしているのか、と思うとなんとなくショックで、無粋な想像に顔を合わせづらかったりする。  はぁー、とため息をついたところへ、訝しげに亜弓が顔を覗き込んでくる。 「秀明と何かあった?」 「は!?」  明らかに過剰反応な石田が肩を揺らした。 「いや、あの時秀明と二人で河岸変えて飲むって出て行っただろ。その翌日にいきなり休んだからさ。何かあったかと思って」 「何かて、何もないですよ。あるわけないやないですか。ただあれから飲みすぎて、二日酔いでつぶれとっただけです」 「ふぅん。それならそうと連絡すればよかったのに」 「ね…寝過ごして、そんな言い訳連絡する気になれへんかったんですよ」 「ふぅん」  亜弓は口をへの字に曲げたまま頷いた。そして周りをきょろきょろと見回し、石田を部屋の隅に連れて行った。 「いや、実はちょっと心配だったんだよ」  小声でそんなことを言う。 「心配て、何がですか?」 「だからさ。秀明がお前を気に入って、どうこうしたりしないかと思って」 「ど、どうこうって」 「されてないならいいよ」  そう言って話を終わらせようとする亜弓を引きとめる。 「あの、そーゆーこと、よくする奴なんですか」 「うん? まあ…どうだろ。あいつ、前にやってたことがやってたことだからな。節操に問題ありかと思ったんだけど」  まぁ何もなかったならそれでいいさ、と言って亜弓はさっさと仕事に戻ってしまう。  部屋の隅に取り残された石田は震える自分のてのひらを見つめた。  秀明が以前男娼をやっていたことなど、石田は知らない。しかし亜弓はとりあえず、秀明の節操に問題を感じているらしい。だとしたら、自分は節操なしの餌食になったということなのだろうか。何があってもしたくないと心に決めていた、快楽目当てのフリーセックスを行ってしまったということなのだろうか。  ガン、と壁に頭をぶつけてみる。  いや、べつに秀明が自分のことを特別な感情を持って抱いたとは、石田も思ってはいない。出会ったその日に恋の愛のと語られても信憑性に欠けるだけだ。  それにしても。『いつもは誰彼かまわずなんてことはないんだけど、今日に限ってつい、』という言い訳でもつけば石田の気持ちも少しは救われるというものである。しかしそれすらない。 (あ~のやろ~っ…)  そんな奴を相手に貞操を失ったのかと思うと本当にやりきれない。また泣きたくなる。  もしかして最中もぞんざいに扱われたりしたのではないだろうか。覚えていないのが悔しい。 「…っかつく…」  未だ壁際で毒づいている石田を、少し離れて亜弓が見つめていた。  夜七時を回った頃、石田の仕事が終わった。  石田は亜弓と同じく、主に調剤の担当である。今日の使用薬品の量と処方箋の内容とが一致したことを確かめると、その日の仕事が終わる。ロッカーに白衣をしまっていると、亜弓も仕事を終えてやってきた。 「お疲れ様です」 「お疲れ。石田、今日は駅直行?」 「はい」 「俺も。途中まで一緒に行くか」 「あ、はい」  諦めたとはいえ、亜弓と時々帰りが重なったりすると嬉しい。亜弓は石田の気持ちを知らないが、石田はそれでいいと思っている。  まだ残っている同僚に声を掛けて、亜弓と肩を並べて外に出る。 「最近中村先生とはどないです?」 「え」  一昨日の飲み会での様子を見れば訊かなくてもわかるようなものだが、訊くと隣の亜弓は少し顔を赤らめた。 「ああ…うん、順調。かな。今また一緒に住んでるんだ」 「前も同居してはったんですか?」 「うん、少しだけ。今回はもう俺の荷物も運び込んでアパート解約しちゃえばいいって言ってくれるんだけど、またいつ喧嘩するかわかんないしな。俺の部屋はまだしばらくそのままにしておくつもりだけど」 「へぇ。ラブラブですねぇ」 「秀明みたいなこと言うなよ」 「ゲ、やめてくださいよ」 「ゲってお前」  思わず本音が出てしまって、石田は視線を泳がせた。その視線の先、病院の門のところに、寄りかかる人影を見つける。 「…佐野」  口にした瞬間、不快感が胸に広がった。 「あ、ほんとだ。秀明ー」  亜弓の呼びかけに気づいて、秀明が煙草を落として靴で踏みつけた。 「秀明お前、灰皿携帯しろよ。病院の前に捨てるなって」 「あー、ゴメン」  軽いノリの謝罪の言葉が石田の心を乱す。 「何、今日はどうしたの? バイトは?」 「今日は休み。淳に用があって」  言いながら、視線を背けていた石田の腕を秀明が引く。 「『淳』?」  秀明の呼び方を聞き咎めて、亜弓が石田を見る。  石田が黙ったまま俯いたのを見て、ピンと来てしまう。 「あ、じゃあ俺、先に帰るわ」 「柴崎さん」  縋るような石田の声を無視して、亜弓は意味深に笑みを浮かべて二人に手を振り、ちょうどヘッドライトが光ったバス停の方へ駆け出してしまった。

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