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第8話
やはり二時を過ぎ、息を切らして秀明がアパートに戻ったとき、石田は床に座り込み、ベッドに頭を預けてうたた寝していた。
「淳…?」
そっと髪に触れると、石田はびくりと肩を揺らして目を醒ました。仰向いて秀明の姿を認め、子どものような仕草で目をこする。
「あー…寝てもた。ごめん」
「いや、俺の方こそ。ごめんな、遅くなって。なんか飲む? ビールくらいはあるよ」
「いや、酒はいらん」
眉を引きつらせた石田は、相当前回の失敗に懲りているらしい。
「じゃあコーヒーでも入れようか。インスタントだけど」
「あ、うん、ありがと」
秀明がマグカップを二つ持ってくるまで、石田は足を抱えて小さくなって座っていた。しかし向き合って床に座り込んでしまうと、二人とも何をどう切り出せばいいものかと逡巡し、すとんと沈黙が落ちてしまった。
仕方ないので、石田がとりあえず亜弓からの伝言を伝えることにする。
「あのさ。柴崎さんが、人のことには大口叩けても自分のことは避けて通んのかって、お前に伝えろて」
「亜弓が?」
コーヒーをすする手を止めて、秀明が目を丸めた。
「…なんだよ、どういうことだよ」
「言えばわかるて言われたけど」
「言えばわかる? うそ。てことはわかんないと亜弓に怒られる? やだなー」
秀明は眉を寄せて、あぐらを掻いた膝をそわそわと上下させた。少し笑えた。石田も秀明も亜弓に怒られるのが苦手なのだ。
「柴崎さんに怒られたことある?」
「んー? 怒られたっつーか。売りやめろやめろって言ってきたのはあの人だったから、なんか頭上がんないな、どうしても」
「……売り、やめるきっかけは柴崎さんやったんや」
「あー…うん。なんかいろいろやめろって言われたぞ、俺。煙草もやめろって言われた。体に悪い、とかゆって。そりゃわかってるっつーの、ねぇ」
「わかってることがなんでやめられへんの。俺煙草吸わんからわかれへん」
「そのまま吸わずにいられたらその方がいいぜ、絶対。綺麗な肺のままで一生終えろよ」
「はは。健康な肺はピンク色してんねやで。お前の肺真っ黒なんとちゃうか」
「あー、かも」
穏やかに笑いあう。けれど、どこかに緊張が残っているのをお互いが感じている。
妙な緊張だ。薄い膜がお互いを隔てている。
「…あの……さ」
それを取り払おうと先に働きかけたのは秀明だった。
「俺さ。すげぇ都合のいい解釈しちゃったんだけど、お前が店に来てくれた時。もうあのこと怒ってないのかな、とかって」
探るように見つめられ、石田はマグカップの中へ視線を逃がした。
「怒っては……ないかもしれへん。ただ俺な、…なんて言うかな…気になっとってん、お前のことが」
「俺?」
「うん」
石田はカップを床に置いて膝を抱え直した。
「…お前、笑たやん。軽蔑したか、言うて。それが忘れられへんかってん」
秀明もカップを置き、ごそごそとポケットを探って煙草に火をつけた。
「俺、軽蔑してへんよ。ほんまに」
灰皿を引き寄せながら、秀明がちらりと上目を使う。
「あのな。お前が触れてほしない場所なんやったら、全然ええねん。話してくれんで。けど俺、お前に話したいこともあったけど、お前の話も聞きたいねん」
秀明には、石田の声が妙に遠く聞こえた。
「――お前、後悔してんねやろ。何でそんな、後悔せなあかんようなこと」
「悪いけど」
石田を遮って、顔をしかめて灰皿に煙草を置いた。涙腺が緩みかけたのは、煙が目にしみたのだということにしておく。
「お前には話したくない」
「…俺、には」
一瞬呆然としたように反芻し、石田は視線をうつむけて不自然に笑った。
「……そ、か」
「悪いとは、思うけど」
「いや、ええねん。立ち入ったこと訊いて悪かったな。な、じゃあ他のこと訊いてええか」
わざとらしい、作った空元気だった。
「うん?」
「お前な、まだ柴崎さんのこと好きか?」
「え?」
それもまた、不意をつく唐突な質問だった。なんだか石田のしてくる質問は全部唐突な気がする。
「好きか、って」
「ん、だってお前も柴崎さんのこと好きだったんやろ? 諦めるて言うとったけど、どうなん」
「……好きだよ」
口にした瞬間に、嘘だな、と自分で思った。
「そーか。せつないな」
「お前は?」
「俺か。俺な。…なんやもうわかれへんようになってもたわ。まだつらいんやけどな、失恋したと思うと。まだ時々考える、なんで俺やあかんかったんか」
その度に結論は出んねやけどな、と石田は笑う。マグカップを引きずって壁際に移動し、背をもたれて伸ばした脚を組む。
「考えたかてもうしゃあない。仲の良すぎるあの二人の姿、職場でまで見せつけられとんのやで、俺。同情したってや」
明るく振舞おうとする中に無理が覗く。その無理に自分で気づいて、石田は顔を背けた。懺悔するような声音で呟く。
「……あの人の隣におりたかった……」
俯くと、石田の表情は前髪に隠れてしまう。秀明は新しい煙草をくわえた。
「――お前と亜弓が並んだ姿は確かに綺麗だけどさ。でも、なんかそれは見た目の綺麗な人形を二体並べたようで、現実感がない。綺麗すぎることが哀しくも見える。お前が亜弓を好きだったことを否定する気はないけど、亜弓にはお前じゃダメだ」
歯に衣着せぬ物言いに、石田が前髪の間から苦笑を覗かせた。あまりにきっぱりしすぎた声に、もう苦笑するしかない。
「…柴崎さんが患者に強姦された後、俺、あの人にはもう今までどおりの性生活は苦痛にしかならへんやろうと思った。だから、自分やったら肉体関係なしでもずっと傍におってやれると思ったけど……あの人の口から出るのは一臣のことばっかりやった。さすがに悲しかったわ。完璧な失恋やった」
「亜弓は、自分が汚れてることをわかってる。お前みたいな綺麗な奴とつき合ってることの方が苦痛になって、そのうち破綻してたさ」
時計の音がやけに大きく響いている。もう三時が近い。
「あの人が汚れてるなんて思ったことないけど」
「でも事実なんだよ。亜弓の過去知ってる? つらい昔話の中で、自分が汚れたことをちゃんと直視してるよ、あの人は。それに亜弓はもう禁欲的な人間なわけじゃない。以前はともかく、今の亜弓は望んで中村さんに抱かれることができる。そうしていいんだってことを、中村さん相手に初めて理解したのさ」
「……」
「お前には、亜弓を抱けないだろ」
「…うん」
「俺にも抱けない。亜弓を哀しく思う気持ちが、好きだと思う気持ちより強いからな。だけどそれじゃ亜弓を本当に愛することはできないんだよ。亜弓は哀れまれることも気を遣われることも望んでない。そうされれば心苦しさばっかり感じて自分を責めて、負担を増やしていくだけだ」
やりきれなくフィルターを噛む。
綺麗といえば、亜弓こそ不思議だ。あれだけ体を汚されて、それでどうしてあんな純粋さを保っていられるのだろう。
「亜弓には俺でもダメだ」
そう言ったことに、不思議と胸の痛みを感じなかった。それはもうだいぶ前に割り切ったことだ。たぶん最初に、亜弓に好きだと告げたときから。
と、ふあぁ、と緊張感のない空気が流れて秀明は顔を上げた。石田が口元を押さえている。
「ごめん、なんや寝不足で」
クスリと笑みがこぼれた。
「いや、いいよ。もうこんな時間だし、泊まっていけよ。ベッド使っていいから」
「え」
一瞬石田の目の色が硬くなる。
「大丈夫だって。俺は床で寝るし。何もしないから安心して」
「俺が床で寝るわ、そんなん悪い」
「いいってば。俺が引きとめたんだし。今日も早くから仕事だろ、もう寝ろよ。な」
「う、うん」
言われるままにベッドに入った。一ヶ月前には二人でいたベッドが、広く感じた。
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