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第10話

 その夜、亜弓からの電話に出た秀明は沈んでいた。こっちもか、と亜弓は嘆息する。 「今日仕事は?」 『休み』 「こないだも休みだって言ってたじゃん。いいなー、休み多くて」 『こないだっつってだいぶ前だよ。それにあの日は休みとったの。今日は月曜で週一の定休』 「へぇ。わざわざ、石田と話すために?」 『…悪い?』 「べつに。悪いとは言ってないさ」  秀明は煙草で嗄れた声をしていた。何度か咳払いをする。秀明の煙草の本数を増やしているのはストレスだろうな、と亜弓は思った。 「あのな。単刀直入に言うけど」  亜弓は軽く髪をかき上げた。 「お前、石田のこと好きなんだろ」 『ゴホッ……はぁ!?』  それでもなお煙草を吸っているらしい秀明が、煙に噎せてから素っ頓狂な声を上げた。 『何言ってんの亜弓、よりによって』 「どうなんだよ。違うのか?」 『どうって…俺あいつのことそんな風に見たことないよ』 「ふぅん。飲み会以来石田の様子がおかしいの、お前が関係あるかと思ったんだけどな」 『お、おかしいってどんな風に?』 「昨日会ってわかんなかったのか? 部屋にまで泊めといてどこ見てんだお前は」  あからさまにため息をついた亜弓に、秀明の態度が萎縮する。 「ああもう、お前がそこまで奥手だったとは」 『奥手って。淳に手ぇ出せって言ってんの?』 「手はもう出したんだろが」 『えぇっ!?』  秀明の心臓が飛び跳ねた。 『ちょ、ちょっと、あいつからどこまで話聞いてんのさっ』 「…図星か。その慌てようからすると、最後まで行ったわけだな? だから翌日欠勤か。かわいそうに、石田」 『うわーっ!!』  電話口で喚いて頭を抱えた秀明は、見事に墓穴を掘っている。 「…あのな、秀明」  なんだか愚かな秀明が気の毒になって、亜弓が穏やかな声音を出す。 「お前が好きじゃない奴でも抱ける人間だってことはわかってるつもりだけどな。でもそれは、金が絡んでたからだろ? お前を買ったわけでもない石田を、なんで抱こうと思ったんだ?」  そう訊かれると、返せる言葉が見つからない。あの時、石田を抱き締めたいと思ったのは衝動だった。 『べつに…向こうも俺も酔ってたし。酒の勢いだよ』 「うーそーだ」 『何が』 「お前はそーゆー奴じゃない」 『なんでさ』 「俺は、ちょっとはお前のこと、知ってるから」  そう。亜弓と秀明はまだ、たぶんお互いが一番近い。亜弓と中村よりも。 「なあ。お前、石田の気持ちはどうでもいいわけ?」 『え?』 「石田も、たぶんお前のこと好きなんだよ。今日、すげえ落ち込んでたぜ。お前に嫌われたっつって」 『俺が嫌った!? いつ』 「売りやってた理由話してもらえなかったから、だとさ」  まさかそれをそう取られるとは思っていなくて、秀明は頭を掻いた。口は何かを言おうとして開いたまま固まっている。 「好きだから知ってもらいたいと思う相手も、好きだからどうしても知られたくないと思う相手も、両方あるって」  だがこちらが返す前に亜弓に先を越された。 「お前が俺に言った言葉だよ」 『!』  頭の片隅に残っていた自分の台詞を言われ、秀明ははっとした。 「お前、わりと誰彼かまわず売りやってたこと話すよな。全然気にしてないみたいに。その理由だって、訊かれればなんでもないことのように話すんだろ。なんでそれが石田にはできないのか、考えたか」 『それは……』  それは、考えた。けれど、答えは出なかった。出せないところにあるのだと、諦めた。 「お前の過去も本当はそんなに簡単に語れる類の話じゃないんだ。でもお前はどこかで……自分のことをどうでもいい人間みたいに思ってるところがあって……誰に軽蔑されてもいいって思ってるみたいな節があるけど。絶対に軽蔑されたくないって存在の人間に出会ったら、そんな風には思えないよな」  亜弓は、幼い頃に性的虐待を受けていたことを明かした時の秀明の表情を思い出した。妙に軽いことのように、過去のこととして、笑って。  秀明の優しさを知っている。時にこの男は、他人を慰めるために自分を貶める。 「…好きなんだろ、石田のこと」  好き。  その言葉で括ってしまえば、話は終わるのかもしれない。しかし秀明は、その言葉を考えつくこともできなかった。初めから、石田を恋愛対象として見ることができなかった。してはいけないのだと思った。  なぜか。 『――俺』  秀明は浅く息をついた。胸に詰まったものは日に日に質量を増している。 『ずっと、俺なんかがあいつを好きになったりしちゃいけないと思ってた』  好きだという言葉を、気持ちを届けるには、石田はあまりに遠すぎる気がする。 『…人の目を見て話せなくなるっての、初めてわかった。淳と話していられるのは、嬉しいけど、つらい。自分がどれだけ汚れてるかわかるから』  けれど石田は、自分を汚してほしいと言った。綺麗な自分が、亜弓との間に縮めようのない距離を持っていることを知って。 『もう二度と触れられない』  秀明に抱いてくれと懇願して泣いた石田の気持ちを、亜弓に伝えることはできないけれど。抱いてやることで行き場のなくなったやるせない想いを解放してやれるのではないかと思ったことは、どうやら幻だったと悟る。 『……二度と無理だ』  ただ今は、石田から奪ってしまったものの大きさだけを思う。 「秀明……」 『あいつに伝えてよ。悪い犬にでも噛まれたんだと思って、忘れてくれって。好きだけど、俺じゃダメだろうから』  石田には綺麗なままでいてほしいと思う。だから自分は傍にいられない。  秀明はそっと目を伏せた。 『……じゃ』  短く告げて、受話器を置き、秀明はその場に座り込んだ。  亜弓も通話の切れた受話器を置いた。肩越しに振り返ると、右手に車のキーを握った中村が微笑んでいる。  目を合わせ、亜弓も微笑んだ。

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