7 / 32
第3話-①
帰宅すると、将太は息を切らしながら玄関に座り込んだ。
「将太大丈夫?」
荒い呼吸で肩を上下に揺らしている隣で、息一つ乱さずけろりとしている幸太郎がいる。幽霊だからか、疲れを知らない体らしい。
「あぁ、大丈夫……」
とはいえ、部屋まで上がる体力がもうない。まるでお尻に根が生えたかのようだ。体が持ち上がらない。しばらくは動くことも出来そうになかった。
「そういや、今日一度も黒いモヤ出て来てなかったな。すっかり油断してた」
神出鬼没の黒いモヤ。毎日いつ現れるかビクビクしながら過ごしていたのに、幸太郎の天真爛漫な性格のせいだろうか、すっかり頭から抜けていた。自然と忘れていたのだ。
あの時、幸太郎には黒いモヤが見えていた。今まで誰にも見えなかったモヤの存在。どうして幸太郎には見えたのだろうか。もしかしたら、幸太郎と同じく幽霊のような存在なのかもしれない。何にしろ、幸太郎がそいつに気付いたのは事実だ。そして、約束通り幸太郎はあのモヤから身を挺して助けてくれた。
“助ける”だなんて、正直、成仏したいが為の口約束だと思っていた。
「……さっきは、ありがとな」
「え?」
「動けなくなった俺の手、引いてくれてさ……その、助かった。ありがとう」
幸太郎はそれを聞くと鼻を伸ばし誇らしげに腕を組んで言った。
「当たり前じゃん!僕は将太の用心棒なんだから!」
「……うん」
口約束をしていたのは自分の方だ。
ずっとへらへらと笑っていたから、きっと成仏出来ない理由も大したことないんだろうと思っていた。やり残したことを聞いて、テキトーに叶えさせたらすぐに成仏するもんだと、簡単に考えていた。
幸太郎の本当の未練。恋人に伝えられなかった想い。渡せなかった指輪。一緒になることも叶えられずに人生を終え、その恋人ももうこの世にはいない。怒りや悲しみをぶつける相手すらいない。いっそ憎む相手でもいたらよかったのだろうか。きっと憎んだところで無念は晴れやしないだろう。そんな行き場のない気持ちを幸太郎はずっと抱えていたのだ。
なのに、自分は幸太郎を表面上の振る舞いだけで判断して軽く見ていた。助けると言った言葉も信じていなかった。
あの時幸太郎が握ってくれた手も、かけてくれた言葉も、どちらも心強くて安心して、そして、胸が苦しくなった。いい加減な気持ちで幸太郎に接していた自分が恥ずかしくなったのだ。
隣を見ると幸太郎と目が合った。幸太郎は歯を見せて無邪気な笑顔を浮かべている。
「……なぁ、何でそんなに笑顔でいられるんだ?」
「へ?」
「だって、辛いはずだろ。恋人が先に逝ってしまって、理不尽な思いをぶつける先もなくて、幽霊の姿でずっと彷徨ってるなんてさ」
幸太郎は目を細め、柔らかく笑みを浮かべた。
「僕の大好きな人が言ったんだ。僕の笑顔が好きだって。だから決めたんだ。辛いことがあっても、苦しい時でも、笑顔を絶やさないようにしようって。それにほら、よく言うでしょ、笑う門には福来たる!」
ニッと口角を上げ、両頬に人差し指を添えて笑顔を見せる幸太郎。そんな幸太郎の姿を見ていたら、少しだけ、張り詰めていた重たい気持ちが和らいだ気がした。
その恋人が言うのも分かる気がする。幸太郎の笑顔はきらきらと眩しくて、まるで明るく照らす陽の光のようだ。
「強いんだな、お前」
「え?僕そんな力持ちじゃないよ?」
「いや、そうじゃなくて」
どうやら天然も兼ね備えているらしい。
「そうじゃなくて、内面。芯の通った強さがあるってこと。すごいよ、本当に」
「えへへ、そうかな」
幸太郎は頬を掻きながら照れ笑いを向けている。本人はそんな風に思っていなかったのだろう。けれど、将太から見れば幸太郎の芯の強さは憧れを抱くほど羨ましいものだ。逃げてばかりの自分には到底持ち得ないものなのだから。
「僕ね、昔から落ち着きがなかったし、考えなしに行動しちゃうから失敗も結構多かったんだ」
瞳を閉じ、自分の胸に手を当てて幸太郎は続けた。
「けど、一度心に決めたことは最後までやり通したい。そう思ってる」
ゆっくり開かれた瞼。真剣な眼差しが将太を捉える。
「あの黒いモヤ……正直、想像以上の不気味さで、僕も一瞬動けなかった。それでも、将太のことは僕が何とかする」
「何とかって……お前も恐怖に感じたんだろ?だったら、あの黒いモヤはやっぱり危険なやつじゃないのか?そんなやつに太刀打ちなんて……」
幸太郎は表情を緩め、柔らかな笑みを頬に乗せて言った。
「“できる”“できない”じゃないよ。僕がそうするって決めたんだ」
「何で、そこまで……」
「将太、この出会いはきっと僕たちに与えられたチャンスなんだ」
幸太郎の手が将太の頬に伸びた。優しく触れる幸太郎の指。
「僕の姿は将太にしか見えない。将太にしか触れられない。この声も、届くのは将太にだけ。僕はどうしても叶えたいんだ、自分の望みを」
幸太郎にとって、将太は未練を断ち切る為の鍵、キーパーソンなのだ。
「僕の望みはきっと一筋縄じゃいかない。だから、それ相応に頑張らなきゃ釣り合いが取れないでしょ?」
将太は膝に置いた手を握り締めた。最初は単なる利害の一致に過ぎない、軽い約束のようなものだと考えていた。しかし、幸太郎が向ける真っ直ぐな瞳は真剣そのものだ。
幸太郎の抱える思いと信念。それを知って将太は改めて思う。幸太郎のために、自分は一体何をしてやれるのだろうかと。
「ねぇ将太、一つ提案なんだけど」
幸太郎は正座をし、改まって言葉にした。
「僕の恋人になってくれないかな」
「へ?」
思わぬ提案に将太は固まった。あまりの唐突さに思考が止まる。その姿に、幸太郎は慌てて大きく手を振って続けた。
「あっいや、恋人になるっていうのは形だけで、恋人のフリをしてみてもらえないかなってことで……!」
振っていた手をゆっくり納め、気恥ずかしそうに頬を掻きながら幸太郎は言った。
「実は僕の恋人ね、将太と少し雰囲気が似てるんだ。面影があるっていうのかな。だから、その人とやりたかったことを模擬体験できたら、もしかしたら成仏できるかもって思って……」
伺うように、幸太郎は控えめに笑みを浮かべる。
「……ダメ、かな?」
そろりと目を逸らし、頭を押さえて将太は考え込んだ。恋人役。確かにそれを叶えられるのは目の前にいる自分だけだ。何しろ幸太郎と会話ができるのも、見えるのも触ることができるのも自分だけなのだから。
しかし、幸太郎の恋人役とはつまり、自分が女性側を演じるということだ。雰囲気や面影があるとはいえ、男の自分に恋人役なんて務まるのだろうか。ここで断るという選択肢も、あるのはある。だが、それならそれで他の手立てを考えるのが筋だ。幸太郎が納得して成仏できるような他の良い方法。案の定思い浮かばない。
ぐるぐると思考を巡らせる将太。その隣で、沈黙を続ける将太を気にしながら返事を待つ幸太郎がいる。
幸太郎だって、ふざけてこの提案をしたわけじゃない。自分の望みを、無念を晴らすため、心置きなく成仏する、そのために言っているのだ。真剣に考えている。だったら、自分も腹を括ってそれに応えるべきじゃないだろうか。
唇に力が入る。将太は意を決し、勢いよく顔を上げると天井を仰いで声を出した。
「だあああああ!分かった!分かったよ!!」
幸太郎の手を握って引き寄せると、将太は頬を染めながらも幸太郎の目をしっかりと見つめて伝えた。
「今日から俺がお前の恋人だ!分かったな!こ、幸太郎!!」
その言葉を聞いた幸太郎は、まるで青空のもと、さんさんと照らす太陽のような明るい表情へと変わり、両手をめいっぱい広げて将太へ抱きついた。
「わぁい!ありがとう将太!」
「わっ、急に抱きつくと倒れるだろ!」
了承したものの、将太は改めて考える。恋人同士というのは一体何をしたらいいのだろうか。しかも相手は幽霊だ。今まで恋人はおろか好きな人ができたこともない。そんな自分に、幸太郎の恋人役が果たして務まるのだろうか。正直自信はない。それでも、幸太郎の傍にいて、望むことを一つ一つ叶えてやることが今の自分にできる、幸太郎への精一杯の誠意だ。
幸太郎をきちんとあの世へ送ってやろう。胸元で顔を埋める幸太郎を見下ろし、将太はそう心に決めた。
その日から、幸太郎の恋人役として一緒に過ごすことになった将太。幸太郎はたまに家から居なくなるが、散歩に行ってきたと言ってすぐに戻ってくる。部屋の中では新しい遊びを考えたと言って披露したり、できることは限られるが家事を手伝ってくれることもある。
幸太郎はとにかく喋ることが好きらしい。昔読んだ漫画や戦隊ヒーローものの話をよく聞かされた。自分も好きだった作品ゆえ、話に花が咲くこともしばしばあった。さすがに勉強中に熱弁された時は注意をしたのだが、そういう時の幸太郎の反応は分かりやすい。叱られた犬のように眉を垂れて凹んでいた。言い過ぎたかもしれないと心配したが、幸太郎は何事もなかったかのようにまた元気に笑いかけてくる。なんて立ち直りが早いのだろう。失敗をしても笑い飛ばしてしまう。そんな幸太郎と一緒に過ごすと、平凡だった日常が少し賑やかになった。
大学での授業も、昼食も、帰りの本屋も、笑っている幸太郎が傍にいると、周りの景色が不思議と色鮮やかに見えた。まるで幸太郎が辺りを照らしているかのようだ。
最初は恋人と言われて身構えたものだったが、今では繋ぐ手も指を絡めることに抵抗がない。むしろ、幸太郎の傍にいると気持ちが穏やかになり、とても心地が良かった。
ともだちにシェアしよう!