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第3話-②

 それは、ある夜のことだった。  ベッドの上でくつろぎながら雑誌を読んでいた将太は、ふと気付いたのだ。最近、黒いモヤに遭遇していないということに。幸太郎と出会ってから出現率が確実に減っている。幸太郎は一人で外へ出掛ける時があるが、帰ってきた時も本人は変わらず元気溌剌だ。退治しているような素振りは見せていない。一体、どういうことなのだろうか。そんなことを考えていると、幸太郎がベッドからひょっこり顔を出して名前を呼んだ。 「将太、将太」 「ん、何?」 「それ、何見てるの?」  幸太郎が指差したのは手に持っていた雑誌だった。開いたままベッドに置くと、幸太郎は雑誌に書かれた文字を読み上げた。 「血液型占い?将太占いに興味あるの?」 「いや、たまたまページ開いたら載ってただけ」 「ねぇO型何て書いてある?」 「O型?お前も血液型O型なのか?」 「うん、一緒!」  幸太郎はよく見ようと身を乗り出し、将太に寄りかかってきた。 「ねぇねぇ相性載ってる?」 「わっ」  幸太郎の肩が、胸元が、体が密着する。すぐ傍には幸太郎の顔。将太は思わず動揺した。幸太郎のこの距離感は今に始まったことではない。それなのに、この緊張感は一体何なのだ。しかし、そんな将太に構わず幸太郎はグイグイと体を押してくる。 「見せて見せて!」 「えっ、ちょ、うわっ!」  将太は体を支えきれず、とうとうベッドに倒れ込んでしまった。妙に密着するなと思ったが、今回は幸太郎の押しがひと際強かった。今までも、幸太郎と何度かこうやってふざけたことがある。ベッドに倒され、仰ぎ見ると幸太郎は顔の前にピースを作っている。「勝ったー!」といつの間にか勝負ごとにすり替えているのだ。幸太郎のそういう所は少し子供っぽく思える。けれど、本人が楽しんでいるならそれでいい。幸太郎の眩しい笑顔が見られるのだから。 「ったく、押すなよ幸……た、ろ……」  目を開き、いつものように名前を口にしようとした。いつものように満面の笑みを向けて、楽しそうにしている幸太郎の姿が目に映る、そう思っていた。  ほんのりと染まっている頬。艶が増し、潤った真ん丸の瞳は細く伸び、将太に熱い視線が注がれている。僅かに開いた口元からは熱のこもった吐息を感じた。幸太郎の首筋から鎖骨にかけて流れる体のラインが妙に艶めかしい。とろんと甘い空気を放つ幸太郎に、思わず胸の鼓動が波打った。 「……将太」  将太の手に幸太郎の手のひらがするりと伸びる。形を確かめるように、一本一本指の間を縫って重ねられていく。徐々に近付く幸太郎の顔。頬に添えられた手のひらから熱を感じた。これは自分の熱なのだろうか。  優しく重なり合う唇。  それは、ほんの数秒間の出来事だった。そっと離れた唇から吐息が漏れる。  幸太郎は体を起こすといつもの無邪気な表情で笑った。 「へへへ奪っちゃった!って言っても、幽霊とのチューなんてノーカンみたいなものだから――」  そう言っておどけていたが、将太からの反応が何も返ってこない。 「……将太?」  口元を手で隠している将太。その顔は耳まで真っ赤に染まっていた。眉を下げ、視線を横に背けている。その潤んだ瞳には戸惑いの色が伺えた。  いつもと違う幸太郎の雰囲気、突然のキス。戸惑っているのはそのことだけじゃない。唇が重なった時、胸が突然熱くなり、得も言われぬ高揚感が体の奥から湧き上がった。その数秒間が甘くとろけるような心地良い時間に変わり、唇が離れる瞬間には名残惜しいとさえ感じてしまったのだ。  将太は己自身の反応に、大きな困惑を抱いていた。  胸が熱い。一向に冷め止まない。脈打つ心臓の音が、鼓動が体中に響いて聞こえる。顔の火照りも引いてくれない。恥ずかしい。恥ずかしくて幸太郎を直視できない。 「……ねぇ将太」  そんな将太に、幸太郎が問いかけた。 「もっと、していい?」  断るという選択肢はもはや浮かばなかった。奥深くまで絡み合う舌。艶めかしい吐息が混ざり合う。漏れる声にも一層熱が帯びた。  優しくも、どこか強引さのある幸太郎の触れ方に興奮を覚える自分がいる。そんな風に感じてしまう自分が恥ずかしい。それでもこの体は幸太郎を求めていく。羞恥心と高揚感。葛藤渦巻く二つの感情。将太の頭は一層混乱していた。  首筋に舌が這う。ぬるりとした感触に思わず体がビクついた。 「こ、幸太郎……」  その時、幸太郎の手が止まった。無言のまま、一向に触れてくる様子がない。将太は上がった息を整えながら、そっと目を開いて幸太郎を見上げた。 「幸太郎……?」  幸太郎は自身の両腕を見つめていた。薄っすらと透き通り、消えかかっている自身の両腕を。 「体が……」  いつから錯覚していたのだろうか。こんな穏やかな日々が、この先も永遠に続くだなんて。勘違いしていた。失念していた。いや、違うのだ。本当は分かっていた。  幸太郎が笑顔を向けるのも、触れてくるのも、抱きしめるのも、甘い言葉を口にするのも、全部自分が成仏するための計らいだ。武藤将太という人間を通して、亡くなった恋人の面影を見ていたに過ぎないのだ。自分たちは本当の恋人ではない。分かっていたのだ。  それでも、幸太郎と過ごす日々に穏やかさを覚え、心地良さを感じ、傍にいることが当たり前になっていくうち、いつの間にか考えないようにしていたのだ。  成仏という、いつか来る別れの日を。  将太はその日を皮切りに、心にざわめく思いを抱き始めた。

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