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第5話-②

 最初に「あの場所」へ行ったのは、将太に輸血をした直後だった。  気が付くと幸太郎は街の交差点に立っていた。いつの間にこんな所に来たのだろうか。状況が掴めず辺りを見回していたその時だ。背後から子供の声が聞こえた。はしゃいでいる男の子の声。横断歩道に突っ立っている幸太郎の方へ、走りながら近付いて来る。その後ろにいるのは母親だろうか。「急に走るとぶつかるわよ!」そう叱る声が飛んでくる。避けなければ。後ろを振り向いたその瞬間、幸太郎はその光景に目を見開いた。男の子が、自分の体をすり抜けて走り去ったのだ。一体どういうことだ。今、何が起こったのだろうか。 「ちょっ……」  思わず手を伸ばし、走り抜けた男の子を追おうとした。その途端、今度は目の前を横切った女性の持ち物に手が当たった。いや、当たったのではない。貫通したのだ。恐る恐る、もう一度、通行人の肩に触れようとしてみた。 「あ、あの……」  しかし、結果は同じだった。人だけではない。物もすり抜ける。そればかりか声も聞こえていない。誰も自分の存在に気付いていない。見えていないのだ。これではまるで幽霊ではないか。一体何がどうなっているのだ。幸太郎は自身の両手を見つめただただ混乱していた。  その時だ。すれ違った人と肩がぶつかった。 「すみません」  その声はよく知った声色だった。咄嗟に振り向き、通り過ぎるその姿を見やった。恋人とそっくりな男性。将太なのだろうか。あっという間に過ぎ去るその男性の後ろ姿。幸太郎は慌てて手を伸ばし彼の後を追う。 「ちょっ、ちょっと待って!」  後ろ姿も将太にそっくりだ。本人なのだろうか。確かめたい。それに、今この人は確かにぶつかった。すり抜けなかった。自分を視認していた。 「僕が見えるの!?」 「え?」  青年は驚いた顔を向けていたが、やはり見間違いではなかった。目の前にいるのは紛れもなく恋人の姿。将太本人だった。  触れられる。声が届いている。幸太郎は安堵と嬉しさで表情に明るさを取り戻した。 「僕が見えるんだね、将――」  名前を呼ぼうとしたその時だ。 「誰?」  突き放すようなその一言が、幸太郎の胸を鋭く貫いた。  そこでハッと目が覚めた。薄暗く静まり返った廊下。時計の秒針だけが辺りに響く。視線をずらすと「手術中」と赤く点灯した表示灯が視界に入った。  そうだ、今日自分たちは一緒に出かけて、事故に遭い、そしてこの病院に運ばれたのだ。幸太郎は自身の左腕に目を向けた。輸血を申し出て差し出した左腕。ガーゼで覆われたその部分をさすり、現在も続く手術中の将太の容態を案じた。  輸血後、ここで待っている間うっかり眠ってしまったらしい。先ほど見たのは夢だったのか。通りでおかしなことが起こるわけだ。  側に置いていたスマホのライトが点滅している。電話がかかってきていたらしい。幸太郎は外へ出ると、着信履歴に表示された母親の番号に電話を掛け直した。 「うん。うん、大丈夫。本当だよ、かすり傷程度。心配しないで母さん。本当に大丈夫だから。うん、じゃあまた連絡する」  通話を切ると、幸太郎は暗くなった空を仰ぎぼんやりと眺めた。もうこんなに暗くなっていたのか。スマホ画面の時刻は22時を回っていた。事故発生後、運ばれてからもう大分と時間が経つ。  将太は今も尚、生死の境を彷徨っている。自分には待つことだけしか出来ない。祈り、願うことしか出来ない。幸太郎は顔をしかめると奥歯を強く噛み締めた。 「ちくしょう……」  悔しさの滲む声が、小さく零れ落ちた。  院内へ戻った幸太郎は、手術室の廊下へ向かうと足を止めた。誰かの話し声が聞こえる。 「失礼ですが、奥様は今どちらに?」 「いませんよ。あいつを産んですぐに他界した。それで将太は?手短に言ってくれ。明日も早朝から会議が入っているんだ」  どうやら会話をしているのは医者と将太の父親のようだ。  幸太郎はふと思い出した。二人が付き合い始めた頃、家族の話題を出した時のことだ。父親のことを話す将太の表情が印象に残っている。罵声を浴びせられたり、暴力を振るわれていたわけではない。けれど、あの氷のように冷たい瞳と無関心な態度が、ただただ怖かったと、「お前など産まれてこなければよかった」そう言われているようだったと、将太は憂を帯びた表情で話していた。時々感じた将太の消極的な振る舞いは、恐らく父親の影響もあったのだろう。  だから幸太郎はその話を聞いた時決めたのだ。自分と出会えたことに幸せを感じてもらえるように、産まれてきて良かったと思えるように、心から好きになったこの男に、飽きるほど愛を注ごうと。  将太の父親の姿を見たのは初めてだった。スーツ姿の背中。こんな遅い時間まで仕事をしていたのだろうか。 「できることは尽くしました。出血が多く、とても危険な状態でしたが輸血を申し出てくれた方がいましたので一命は取りとめました」  一命は取りとめた。その言葉を聞いて幸太郎は張り詰めた緊張が緩んだ。しかし、医師は重たい口調で言葉を続ける。 「ただ……将太くんは頭を強く打ち、脳に損傷を受けています。その為、今も昏睡状態が続いており、申し上げにくいのですが……この状態が長引けば回復の見込みは薄れていくでしょう。意識が戻るかどうか……。あとは将太くん自身にかかっています」  その言葉を聞いた途端、幸太郎の目の前は真っ暗になった。脳に損傷。昏睡状態。このまま意識が戻るかすら分からない。再び張り詰めた緊張が幸太郎を襲った。どうしてこんなことになってしまったのだ。今朝までは、いつものように何気ない話をして笑い合っていたのに。当たり前の日常だった。今日という日を楽しみにしていたのに。明日も明後日も、その先もずっと二人で笑って、泣いて、時には喧嘩して、また手を繋いで歩いていくはずだった。それなのに、突然こんなことになるなんて。  胸が圧し潰される。苦しい。まるで暗くて深い、海の底に放り投げられたかのようだ。幸太郎は心の中で何度も将太の名前を呼びかけた。もがいてももがいても、成す術なく沈んでいく自分の体。将太の背中が段々と遠のいていく。そんな風に思えた。 『コタ』  瞼の裏に映る将太がそう呼んだ。控えめに笑ってはにかむ将太。思い出されるのは、そんな穏やかな将太の姿。そうやって手を差し伸べて、いつも呼んでくれたのだ。幸太郎の愛称を。  もう一度呼んでほしい。その声で、その眼差しで、その温かな手のひらで包み込みながら。  しかし、幸太郎の耳に響くのは薄暗い病院の、単調に進む時計の針の音だけだった。

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