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第9話-➄
「こ、幸太郎何して……!」
熱を孕んだ将太の声が部屋に反響する。咥えられた指から伝わる艶めかしい感覚。将太は頬を染めながら、もどかしそうな表情で幸太郎の名前を呼んだ。必死に理性を抑え、その先に進むことを拒もうとしている。
しかし幸太郎は止めようとしない。幸太郎の表情に焦りが浮かんでいた。深く濃厚な触れ合いを重ねれば、将太の脳を強く刺激できるはずだ。きっとそこに鍵がある。幸太郎はそう考えていた。将太の敏感な場所は知っている。幸太郎は更に踏み込もうとした。
しかし、肩を掴まれ、体は勢いよく離された。その時だ。体のバランスが保てなくなり幸太郎はその場に崩れ落ちた。足元に感じた違和感。力が入らない。
「え……」
足が、消えかかっていた。
カラン、と何かが当たった音が耳に響いた。床に転がったそれに一早く気付いたのは将太だった。将太の視線を辿り、側で円を描いて転がる指輪の姿を幸太郎も捉える。
何故指輪が夢の中にあるのか。艶やかな輝きを放つ銀色の指輪。それは将太の指輪と同じ艶めきを放っていた。手を伸ばし、そっと触れてみる。すり抜けない。夢の中のものは触れることはできない。干渉ができなかったはずだ。幸太郎は指輪を掬い上げ確かめた。間違いない、この指輪は自分が将太のために用意したものだ。幸太郎の存在は将太の記憶から消えていた。すなわち、将太へ贈るはずだったこの指輪も夢の中に存在するはずがないのだ。ならばこの指輪は一体どこから……。
ふと思い出す。眠る直前、願いを込めるようにこの指輪を握り締めたことを。まさか、夢の中に現実世界のものを持ってきたということなのか。しかし、今までスマホやバッグ、財布など身につけていたものがこちらの世界へ持ち込まれることはなかった。着ていた服だって、こちらに来る度あの日の服装に変わっていた。こんなことが起こるなんて。
「絆創膏切らしてたから買ってくる」
その声に、幸太郎は慌てて顔を上げた。
「あっ、僕も一緒に――」
少しでも長く将太の側に居なければ。
しかし、立ち上がろうとする幸太郎に将太が言葉を重ねる。
「お前は留守番しててくれ」
「でも僕……!」
早く言わなければ。時間が無いのだと。
玄関へ向かう将太の背中に腕を伸ばしたその時だ。意識が途切れ、気付くと目の前の視界は病室へと切り替わっていた。
「……え?病室?」
戻ってきた。この感覚は、現実世界だ。幸太郎は咄嗟にスマホを確認した。時計表示に目をやる。まだ10分も経っていない。明らかに時間が短くなっている。
途端、激しい目眩が幸太郎を襲った。持っていたスマホは手元から滑り落ち、平衡感覚が麻痺した幸太郎の体は、椅子もろとも床へ転げ落ちた。病室内に大きな音が響く。何だこれは。浅い呼吸を繰り返す幸太郎。激しい頭痛と吐き気が交互に襲ってくる。
「幸太郎くん!?」
木下の声だ。輸液パックの交換でたまたまこの病室に向かっていたのだろう。木下はすぐに駆けつけ、幸太郎の体を支えた。
「幸太郎くん大丈夫?」
「木下さん……大丈夫です。それより、もう一回行かなきゃ……」
「幸太郎くん顔色が悪いわ。今日はもうやめた方が――」
「時間が無いんです!!」
幸太郎は思わず声を荒げた。心配そうに顔を向ける木下の姿が目の端に映る。
「これ以上、将太をあの場所に留めておくことは危険なんです……!あっちの僕の体も消えかかってる……早く……早くしないと将太が……」
意識の戻らない将太。ベッドに眠るその横顔を、悲痛な表情で見つめ言葉を零す。
「将太が、死んじゃう……!」
刻一刻と迫るタイムリミット。ようやく分かった気がするのだ。記憶の鍵が何なのか。もう一度、もう一度だけあの場所へ行かなくてはならない。将太に会いに行くのだ。やるべきことが、成し遂げなければならないことがあるのだ。
よろめく体を再び椅子に収め、握っていた手のひらを開いた。将太へ贈るために用意した大切な指輪。見つめながら思った。きっと、次が最後のチャンスだと。
幸太郎の額に汗が滲む。体を襲う苦痛に耐えながら、幸太郎は目を細めると、眠る将太に視線を移し、その頬に笑みを浮かべた。
「将太。今、行くよ」
将太の声が聞こえてくる。繰り返し呼ぶその名前。ゆっくりと瞼が開かれると、切なさと愛しさが混じり合った幸太郎の瞳が将太を捉えた。焦りを含んだ必死な声が幸太郎の耳に反響する。
その愛おしい背中を、優しく包み込むように抱き締めた。
「ここにいるよ」
傍にいる。ずっと将太の傍にいる。雨が降ろうと、風が吹こうと、嵐が来ても、どんなことがあっても将太の傍にいる。一人になどしない。寂しい思いももうさせない。将太のことを誰よりも大切に想っている恋人がここにいる。だからお願い。
『思い出して、僕のことを』
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