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第10話-①

 幸太郎の姿が完全に消えた。 「幸太郎……?」  開け放った窓から僅かな風が通る。白いカーテンがゆらゆらと揺らめいていた。まだ、そこに居るんじゃないか。そう思い手を伸ばしてみたが、掴んだのは何もない空間だった。握った手に力が入る。将太は身を翻し外へと飛び出した。  幸太郎の姿を探さずにはいられなかった。姿が消えた直後、喪失感は確かにあった。けれど、それ以上に焦燥感が消えなかったのだ。むしろ一層増している。鼓動が早くなる。それは単に街中を走っているからだけではない。何か、このままではいけない気がするのだ。とてつもなく大きな何かが迫っている。そんな恐怖と切迫感が全身を覆っていた。  幸太郎が消える直前に言っていた言葉が脳裏に蘇る。 「僕を思い出して」  一体どういうことなのだ。思い出すも何も、幸太郎は突然目の前に現れた青年だ。成仏させてほしいと言って現れた幽霊なのだ。思い出すとは何のことなのだ。  街中を夢中で走り抜け、気付いた時にはその場所に辿り着いていた。花束とお菓子の袋、そしてジュース缶。それらが所狭しと置いてある。幸太郎が以前話してくれた事故現場だ。  ゆっくりと近付き、その場を見下ろした。あの時の幸太郎の背中が思い出される。苦しさを滲ませて話す幸太郎の姿が。  両手で頭を抱え、くしゃりと手を握り締めた。  幸太郎は言っていた。「あの日、僕たちは二人で出かけていた」と。恋人と二人で出かけていたのだ。そしてこの場所で事故に巻き込まれて、それで……。  ふと、両手の感覚の違いに気が付いた。左手に何かある。頭から手を離し、ゆっくりと手のひらを開いた。左手の薬指。そこに嵌められた艶めく銀色の指輪が瞳に映った。  その時、ぼんやりと朧げな声が脳裏をかすめた。一つ、そしてまた一つ。誰かの姿と声が蛍火のように浮かんでは消える。すりガラスの向こう側にいるような朧げな姿。籠った声。瞼の裏に映るその姿は、その声は一体誰のものなのか。分かるのは、胸の奥から込み上げる懐かしさと愛しさ。震えるほど恋しい感情。ああ、知っている。自分は知っているのだ。恋焦がれて堪らないその人のことを。心に刻まれたこの想い。これは、記憶だ。  灯っては消える蛍火。待ってくれ。将太は脳裏に浮かぶ光に手を伸ばし、掴み取ろうと必死に追いかける。  目一杯伸ばした手。光が、将太の指先に触れた。その時。 「……太」 「将太!」  楽しそうに、弾む声で名前を呼ぶ幸太郎の姿。何か良いことでもあったのだろうか、そう思うほど今日は一段と元気がいい。幸太郎は振り向いて満面の笑みを向けた。 「実は今日、将太に渡したいものがあるんだ」 「渡したいもの?」 「うん、でも今はまだ秘密!」  まるで宝箱が開かれるのを楽しみにしているような、そんなワクワクした幸太郎の表情。その秘密が明かされるのはいつだろうか。子供のように緩みきった幸太郎の顔を見ていると、こちらまで楽しい気持ちになる。そんな風に将太は思う。  チラチラと将太に視線を送る幸太郎。今はまだ、と言ったばかりだが、ソワソワして落ち着かない様子だった。照れ笑いを浮かべて幸太郎は顔の前で両手を合わせると、緩んだ頬をさらにふにゃりとさせて言った。 「僕、今すごく幸せを感じてるんだ。将太と一緒にいる時が一番幸せ」  幸太郎は頬をほんのりと染めて幸せに満ちた笑みを向けた。柔らかくてくすぐったい空気が将太を包み込む。急にそんな風に言われると恥ずかしくなってしまう。 「僕、この先の人生も将太と一緒に歩んでいきたい。将太と二人で幸せを築いていきたい。まだまだ難しいことや困難もあると思う。でも、僕決めたんだ。将太にきちんと伝えようって。それで、今日の為に買ったものがあって……」  分かってしまった気がする。幸太郎が言わんとしていることが。 「えーと……つまり、今のってプロポーズ?」  幸太郎の顔がみるみる赤く染まっていく。 「渡したいものって、もしかして指輪だったり――」 「わあああああああああ!!」  将太の言葉を遮るように、幸太郎は焦りながらブンブンと両手を大きく振った。 「ち、違っ!いや違くな……あっ!えーっと!これは今日の最後のお楽しみってことで!!」  隠せていないその秘密とやらを必死に隠そうとする幸太郎の姿。なんとも可愛らしく愛おしいことか。 「わかった」  本当に、こちらまで笑顔が伝染する。  薄紅色に染まる頬。すっかり下がった将太の目尻。緩む口元を手で隠し、将太は胸に広がる幸福感を抱きながら幸太郎へ伝えた。 「じゃあ、今日楽しみにしとく」  その言葉に、幸太郎は太陽のような眩しい笑顔を乗せて、元気いっぱいに笑って言った。 「うんっ!」  涙がとめどなく溢れ、こぼれ落ちる。どうして忘れてしまったのだろう。幸太郎とのかけがえのない思い出を。こんなにも大事な記憶を。胸が熱くて苦しい。涙が溢れ出て止まらない。 「そうだ……俺は、俺たちは、あのあと事故に巻き込まれて、それで……」  蘇る記憶。散らばったガラス片やブロック、ひん曲がったポール、そして膝をついてこちらに手を伸ばして叫んでいる幸太郎の姿。次第に暗く狭くなっていく視界。赤黒い液体が地面を徐々に濡らしていくのを見た。生温い、赤い液体。それは、自分の体から流れ出ていく血だった。  そして不可解に気付く。それで、この体はどうなった?何故、自分は日常生活を送っているのだ。幸太郎はあの時助かっていたはずだ。何故幽霊の姿で現れたのだ。ふと辺りを見回した。人が、誰も居なくなっていた。車も走っていない。搔き消えた鳥の鳴き声。無風無音。そこにあるのは、ただの無機質な建物だけ。ここは、何かおかしい。  ようやくこの場所の異常に気付き、冷や汗が噴き出た。  ここは何処だ。  途端、激しい頭痛が将太を襲った。視界の端にあの黒いモヤが映る。息を吞んで振り向くと、肥大化したモヤが辺り一面を覆うように漂っていた。いつの間にこんな広範囲にまで。逃げなければ。でも一体どこへ。この場所に逃げ道などあるのか。まるで無数の手が生えたようにモヤの端くれがうごめいている。あっという間に上空が覆われていく。走って逃げ切れる範囲ではない。  絶望感が将太を覆う。ようやく思い出したのに、幸太郎が思い出させてくれたのに、もう、あの日常に戻ることはできないのか。  狙いを定めたように、上空を漂う黒いモヤが将太目掛けて一斉に覆いかぶさった。  飲み込まれていく体。そして、将太の意識は暗い闇へと消えていった。

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