31 / 32

最終話-②

 ゆっくりと意識が戻ってきた。病室前の廊下の景色が目に映り幸太郎は咄嗟に立ち上がった。将太はどうなっただろうか。ドアを開け、将太のベッドへと視線を向けた。ベッドを囲むように医師と看護師が立っている。幸太郎は居ても立っても居られず将太の元へ駆け寄った。  そこにいたのは、瞳を閉じたまま眠る将太の姿。目を覚ましていない。幸太郎は将太の手を取ると、握り締めて必死に将太の名前を呼びかけた。祈るように、何度も、何度も繰り返し呼びかける。 「将太!将太聞こえる!?目を開けて将太!将太!」  その時、握り締めた指先が僅かに動いた。見間違いではない。今まで動くことのなかった将太の体が、指が、幸太郎の声に反応したのだ。 「将太!」  閉ざされ続けていた瞼がゆっくりと開かれた。深い深い眠りから、ようやく将太が戻ってきた。この日をどれだけ待ちわびたことだろう。溢れ出る涙が将太の指へと伝い落ちた。  きっと、もう大丈夫だ。安堵したその瞬間、緊張と不安に覆われていた幸太郎の体は、張り詰めた糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。圧迫されるような頭の痛み、視界がぐにゃりと歪み目が開けられなくなった。次第に遠のく意識。かろうじて聞こえるのは、幸太郎の名前を呼ぶ看護師と医師の声。それも徐々に遠くなっていく。幸太郎の意識はそこで途絶えた。  次に目を覚ました時、視界に入った景色は天井だった。二度三度、目をぱしぱしと瞬かせた後、幸太郎は考えるよりも先に体が動いた。勢いよく体を起こすと、両側に居る人影がビクリと動いたことに気付く。  よく見知った二人の顔。両親がベッドの側に座っていた。 「え!?父さん、母さん何でいるの!?」  状況がうまく呑み込めない。  突然の起床に両親も驚いた顔を見せる。しかし、次第に安堵した表情に変わっていき、父親が幸太郎の問いに答えた。 「昨日お前が倒れたって病院から連絡が来てな。父さんも母さんも飛んで来たんだよ」 「昨日!?」 「あんたずっと眠ってて、目覚まさないし心配したんだからね」  周りを見渡し、ここが病院の一室だとようやく気付く。病衣を着ている自分。倒れてそのまま入院したということか。窓からは真夏の太陽の光が差し込んでいた。陽が高い。昨日、ということは丸一日眠っていたのか。幸い、倒れ込んだのが病院だったこともあって、迅速な対応がなされたのだろう。今は全く体の不調を感じない。体調が回復していた。 「とりあえず目が覚めてホッとしたわ。今、看護師さん呼ぶわね」 「何か飲むか?」  そうだ、こんな所でボーっとしている場合ではない。幸太郎はハッと気付く。将太はあれからどうなったのだろうか。気になったら居ても立っても居られなかった。 「ごめん後で!」 「ちょっとどこ行くの!?」  幸太郎はベッドから急いで降り、病室を飛び出した。  その後ろ姿を両親がポカンと見送る。昔から落ち着きのない子だったが、こんな時でも我が子はせわしない。トイレにでも行ったんだろう。父親がのんびりと言う側で、幸太郎の母親は半分呆れながらも、そんなわんぱく息子の後ろ姿を見送った。  見覚えのある院内の造り。間違いない。ここは将太が入院している病院だ。振り向いて自分の室名札に目をやった。そこが2階の病室だと分かると、幸太郎は急いでエレベーターへ向かって行った。  505号室。何度も眺めた室名札。閉じられているその扉にゆっくりと手を伸ばす。扉の向こう側には将太がいる。目を覚まし、こちらへ戻ってきた将太の姿が。  取っ手を握り、静かにスライドさせた。ドアの隙間から明かりが零れる。徐々に露わになる室内。心臓の鼓動が大きな音を立てて耳に伝わってくる。  あぁ、今、自分は緊張している。そう思った。いつものように、明るく飛び跳ねて元気に向かって行くことができない。その姿をいち早く目にしたい。その気持ちと相反して、視線は病室の床を向いていた。 「し、失礼しまぁす……」  小声で、囁くような声を出し、ゆっくり、ゆっくりと視線を上げていく。  セミの鳴き声と一緒に、さらさらと、カーテンがなびく音がした。淡いクリーム色のカーテンが、緩やかな風に乗ってふわりと揺らめいた。陽射しが反射してチカチカときらめく。  その側には背上げされたベッドが一つ。背中を預け、開いた窓の外を眺める一人の青年の姿がそこにあった。 「将太……」  彼を呼びかけた声に不安の色が混ざる。幸太郎の胸には一抹の不安が残っていた。夢の中で初めて将太と出会った時のことが思い出されるのだ。警戒するような瞳。他人に向けて発せられた、不信感を含んだ返答。眠りから覚めた彼は今、どちらなのか。  もし、また記憶を失っていたら……。  それでも、彼が生きていることに変わりはない。夢の中と同じように、またゼロから始めたらよいことなのだ。今までの思い出も、育んだ日常も、たとえ白紙に戻ったとしても、また一から自己紹介をしたらいいのだ。野島幸太郎という人間を、もう一度、何度でも知ってもらえばいい。  そう思うのに、将太の返事を聞くのが怖かった。裾の端を握り、小さく震える手。再び下へ向けてしまった視線。  将太がこちらに気付き、顔を向ける空気を感じると、幸太郎は思わず目をぎゅっと閉じた。  病室内に再び柔らかい風が吹く。その穏やかな声は、温かな風に乗って幸太郎の元へと届いた。 「コタ」  その声は、その呼び名は、幸太郎がずっと待ち望んでいた言葉だった。  唇が震えた。目頭が段々と熱くなっていく。体を巡る体温をようやく感じた気がした。  幸太郎はゆっくりと顔を上げ、その瞳に、待ちわびた彼の姿をしっかりと映し出した。優しい眼差しを向けて柔らかく微笑む将太の姿。  幸太郎は明るい光が差す病室内へ一歩踏み出すと、笑顔を浮かべる将太の元へと駆けていった。

ともだちにシェアしよう!