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第44話

 四合目と刻まれた標石の傍らを通りすぎた。いいかげん三神の元に戻らないと雪だるま式に借りが増えて、後がおっかない。 「先輩、悪いけどここから先はひとりで。おれは、えっと、野暮用で……」  もごもごと言って反転しかけた矢先、ものすさまじい殺気を感じた。銃口を突きつけられて気がするほどで、恐る恐る振り向いて息を呑む。  三神だ、大股で迫りくる三神が、にたぁと嗤った。浅倉、次はおまえの番だ、と言いたげに泥まみれの弁当箱を踏みつぶした。 「タ、タイム!」  莉音は咄嗟に掌を三神へと向けた。弁解の余地がないのは百も承知で、それでも何とぞ寛大な処置を、といったところだが甘かった。水煙を立てて走る戦車の勢いで詰め寄られて、リュックサックを摑まれた。 「目には目を、で当然、お仕置きだな」 「謝る、土下座する、先輩ヘルプ!」 「ごめん、トイレが限界だから先に行くね」  右に曲がると麓へ、左に折れると行き止まりという分岐に差しかかり、三神は莉音を左の道へ引きずっていった。何かの作業小屋の陰でようやく立ち止まると、指の関節をバキバキ鳴らしながら凄む。 「最低限、鼻血ブーは覚悟しろ」 「慈悲の心で、お手やわらかに……」  時代劇でおなじみの「神妙にお縄をちょうだいしろ」という場面なので、自ら頬を突き出した。パッと見には潔い姿だが、本音を吐けばグーで殴るのは勘弁してほしい──だ。  莉音は小屋の外壁にへばりつくと、襲いくる衝撃に備えて固く目をつぶり、歯を食いしばった。制裁を加えられても身から出た錆。ところが、そこで妙な間があいた。  あの扉の横にモンスターがひそんでいるのかもしれない、それとも大鏡の裏? 宙ぶらりんの状態におかれると、びくびくしながらオバケ屋敷の中を歩いているときのように、かえって恐怖心がつのる。  ますます外壁に張りつき、すると湿った衣ずれが耳許でくぐもった。腹いせの鉄拳が炸裂するまで、きっと秒読み段階に入った。そう思うと腕が勝手に動いて顔をかばう。  その腕が力任せに引きはがされるなり、やわらかい何かが唇に触れた。ハチドリが蜜を吸い終えるより素早く、離れていった。  雨に打たれた樹木が放つ香りが、ふくよかに立ちのぼる。渦を巻いているようだった怒りのオーラが、薄まった感があった。  何がなんだかわからないうちに、殴り飛ばされる恐れはなくなったふうだ。莉音はそろそろと薄目をあけると、体操着を引っぱった。鼻血で真っ赤に染まるのを免れたのだから喜ぶべきなのに、すっきりしない。三神がおとなしく引き下がるなんてありえない、と思う。  疑問点はもうひとつ。綿菓子をひとかじりしたような、春風にくすぐられたような、この、唇に淡々しく消え残る感触は何に起因するのだろう? 「三神、あのさ……」  切れ長の目が剣呑にぎらつき、質問を呑み込んだ。唇がむず痒くなるような特殊な薬を塗った? という趣旨のカマをかけるのは寝た子を起こすのと一緒。そう本能が告げた。   かたや疑惑の主の三神は、シャドーボクシングの真似事をする。元気があり余っているアピールみたいでもあり、後ろめたいものをごまかすためのようでもあった。  蛙が鳴き交わしはじめた。莉音はつられて蛙が主人公の童謡を口ずさみ、三神が輪唱のパートを受け持った。 「ケロ、ケロケロケロケロケッ!」 「ゲコゲコゲコゲコゲコゲコーッ」  同時に噴き出し、だが気まずい空気を吹き飛ばすには至らない。ふたりの間に透明な壁が存在するように微妙な距離を保ったまま山を下りた。

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