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後日猥談 ─初夜─4

 歯茎を扱う時と同じように、李一先生は優しく指の腹で上顎を摩った。  ゾクゾクっと密かに体を震わせた僕は、色の変わった瞳に見つめられてハッとした。 「ここを舐められると……腰が動くんですよね、冬季くん」 「ん、んっ……」  ヤケドしてるところを避けて、細く長い人差し指が僕の上顎をさらさらと擦る。  なんか……やらしい目だ。声まで変わってる気がする。  くすぐったさに両足をジタジタ動かすと、フッと目元を細めた李一先生の指が舌の方に移動した。 「キスの度に君の舌下腺を刺激して唾液の分泌を促しているんですが、気付いていましたか?」 「んんっ?」 「舌下腺はここです。唾液腺というのは三つありまして、ここが顎下腺、ここが……耳下腺。分泌される唾液の種類も違います」 「んっ? んっ?」  舌下腺……? 唾液腺……? あと何だって……?  上顎への刺激が無くなって安心してたのに、今度は舌の裏を緩く押された。感覚的には、筋があるところのちょうど横当たりだ。  右手は僕の口の中に入ったまま、ミラーを持ってる左手でこめかみと顎辺りを押されたんだけど、突然の唾液腺講義に僕の思考は追いつかない。  りっくんの目の色と声色、おまけに雰囲気まで変わってるように感じる。  いきなり唾液がどうとかいう話を始めるなんて、李一先生には絶対何か魂胆があると思った。  口を開けっぱなしにしてるのがツラくなってきたと思った矢先、下の前歯に李一先生の親指が置かれ、それからツー……と唇を撫でられたからだ。 「口腔環境を最適化してくれる役割があるので、唾液は大事なんです。それに……唾液を送り合うことで分泌されるテストステロンで興奮を高め、オキシトシンの分泌をも促せばキスだけでもセックスと同等の幸福感が得られる。興味深いですよね」 「……っ? ん、っ……?」  李一先生が何を言ってんのか、全然分かんないんだけど……!  視線が僕の唇に集中していて、歯医者さんごっこが終わりそうな気配だけは感じる。でもやっぱり、目元だけで感情を読み取るのは難しい。  静かに見下ろしてくる李一先生が、いつ僕のりっくんに戻るのか……まったく分からない。 「目視でのカリエスは見受けられませんでした。歯ブラシの毛先が届かない隙間での歯石沈着はあるものの、一度も治療の形跡が無いというのは本当に優秀です。お利口さんです」  そう言って細まった目元が、一本線になった。これはホントに、ほっぺたと口角を上げて笑ってる証拠。  しかも褒められた。〝お利口さん〟だって。  李一先生から褒められると、りっくんに叱られた時と同じくらい嬉しい気持ちになった。  意識してない時から僕はなぜかマメに歯みがきをしていて、そのおかげで今まで「歯が痛い!」という台詞を言ったことが無い。そしてりっくんと出会ってからは、彼が僕の口の中を清潔に保ってくれている。  だから、褒められるべきは僕だけじゃない。 「……毎日、彼氏がブラッシングしてくれてるんです」  僕の枕元に座る李一先生に、僕はチラっと視線を向けた。 「へぇ、〝彼氏〟が?」 「……はい。一週間に一回はフロスで歯間のお掃除もしてくれます。来週には彼氏直々にスケーリング(歯石除去処置)もしてくれるらしいので、僕はおじいちゃんになっても入れ歯になる心配はなさそうです」  何食わぬ顔してるけど、りっくん……絶対自分のことだって分かってるでしょ。見下ろしてくる瞳が、僕をジッと見つめて微動だにしない。  そういう言い方をした僕は、本人にさえ惚気けたくてたまらなかったんだ。  僕の彼氏は、恋人だけじゃなく患者さんみんなの健康を手助けする立派な職業に就いていて、すごい人なんだよって。  でも僕はそんな彼氏を独り占めしていて、今は〝李一先生〟のことまで独占してる。  こんな贅沢なことは無いよなって、自分で言っといて照れた。 「ふふっ、それは良いことです。8020運動、頑張りましょうね。……彼氏である俺と一緒に」 「は、はい……っ」  ひぇ〜〜っ! カッコイイ……!  背中を丸めた李一先生が、りっくんの声で一瞬にして僕をときめかせる。  真上でニコッと笑った目元に見惚れていると、りっくんがスッとマスクをずらした。 「歯医者さんごっこは終わりです」 「……っ! だからぁっ、りっくんがやると〝ごっこ〟じゃないんだって……ンっ」 「ふふっ……」  僕が戸惑ってるのがそんなに可笑しいのか、クスクス笑いながらお腹に乗ってきたりっくんからチュッとキスされた。  触れては離れるキスを二回受けて、気付く。  歯医者さんごっこじゃ何にも、少しも、緊張は解れてない。むしろ……。 「そろそろ君を愛しても?」 「ヒッ……っ?」  僕のパジャマを脱がしにかかったりっくんを、余計に意識してしまう結果になってる。  甘い声も視線もりっくんのそれなのに、姿はたった今まで僕の口の中を診察していた〝李一先生〟。  ハーフっぽいその顔に優しい笑みを乗せて、今から僕を愛するのはいったいどっちなのか、頭の中が混乱しちゃいそうだ。

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