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愛しい手

忽那葵はオメガだ。両親を早くに失くし、祖父母がほそぼそとやっていた写真館を若くして継いだ。 祖父母が地主だったおかげで、いくつかの土地の貸し出しや賃貸経営などで食い扶持には困らなかったが、それでも散財もせずに堅実に暮らしていた。 他に働きに出るつもりではいたのだ。皆のように大学を卒業し、一般企業に勤めて普通に家庭を持つ。 男子として当たり前に、自立するつもりだった忽那を挫折させたのは、他ならない自分の性別だった。 典型的なオメガである葵は、まわりの目が正しく自身のことを見てくれないというのが一番の屈辱だったのだ。 「葵はオメガだから、きちんとした会社は辞めておいたほうがいい。突然ヒートがきて休むことになったら、会社に申し訳ないだろう?」 「万が一番なんて見つけてしまったら、男なのに子供を妊むかもしれんのだぞ?そんな男娼のような目に、儂らはあってほしくない。」 家族の優しさであるというのはわかっていた。ただオメガであるというだけで、真綿で締め付けられるかのように、緩やかに精神を追い詰めていく。 当時は互いが求めて初めて番制度が成立するということがあまり知られていなかった。 葵自身も知ろうともしなかった為、余計に自分を追い詰める結果になっていた。 一人息子で産まれて、オメガ。 両親も、祖父母も大切に育ててくれた。まるで娘のように。 性別を間違えたのなら、せめて柔順に、そして良い子になろうとしていたのだ。だから、毎回口癖のように言っていた。 「私のことを考えてくれて、ありがとうございます。」 微笑んで、家族の提案を素直に受ける。そのことが育ててきてくれたお礼だと思ったし、愛情を返すということだと思っていた。 そして家族は褒めてくれるのだ。葵は素直で良い子だねと。 転機はある日突然きた。 当時、両親がまだ健在だった頃に連れてこられた写真館。イベント事で家族写真を撮るという一家の撮影の手伝いを行った。 七五三の撮影で連れてこられた益子家の一人息子の悠也くんは、居心地が悪そうに館の隅の方で、椅子に座って縮こまっていた。 ブスくれて、まるで周りを威嚇するかのように棘棘とした空気で自己主張していた。 小さいながら自分をしっかり持っている彼に、葵は自分の中の反抗期が具現化したかのような、錯覚を覚えた。 ーなんだろう、きっと彼は今、周りが敵なのだろうな。 まるで、野生動物かのような警戒ぶりだ。祖父と益子家が話し込んでいて居場所がないのだ。 街の小さな写真館だ。人付き合いも大切だが、ほったらかしにされた本日の主役が寂しそうで、なんだか放ってはおけなかった。 どうしようか、と逡巡したが、日中の日差しが窓越しに差し込み、まるでスポットライトかのように彼にあたっていた。それを見たときに、葵は思いついたのだ。 カシャリ。 準備していた撮影用のカメラで、彼の知らない光景を一枚。 シャッター音にピクリと反応したのか、がばりと顔を上げた彼の表情がなんだか面白くて、クスリと笑った。 その様子がなんだかあどけなくて、可愛かったのだ。 「君のこの瞬間は二度と帰ってこない時間だ。」 「え?」 モニターに写った写真には、その瞬間が切り取られていた。 ぽかんとしたままの彼のそばに行くと、先程のモニターを見せた。恐る恐る覗き込むように見る彼の方に画面を向けてやると、小さな感嘆の声が漏れた。 小さな縁の中、まるで称えるかのように光を背負った彼の姿は、少しだけ大人びてみえたのだ。 「その、貴重な一瞬を、見せてくれてありがとう。」 「ど、どういたしまして…」 頬を染めながら、小さくお礼を言われると、なんだかとても擽ったかった。葵は自分の撮った一枚で、彼の表情を変える事ができたのが何だかとても嬉しかったのだ。 そこから、彼。悠也くんとの繋がりが出来たのだと思う。 あのことがきっかけで、葵がカメラに興味を持ち、ほそぼそと撮影したものをフォトコンテストなどに応募したりと、小さな趣味と言えるものが出来た。 一年後のことだった。高校生に上がったばかりの頃に、両親を事故でなくした。過保護なくらい葵を大切に、まるで娘のように育ててくれた二人がバスの転落事故に巻き込まれたのだ。 葵はその日、初めての発情期に苦しんでいた。 病院の先生は、初潮のようなものだから二三日で収まると言ってくれた。初めての発情期だ。怖くて怖くて堪らなかった。 祖父母はベータだったので、苦しむ葵を部屋に仕舞い込み、周りには流行病だといった。 番がいれば、と頭をよぎった。初めての発情期に、一人。抑制作用のある座薬を一人で入れるのは酷く手が震えた。誰かにそばにいてほしかった。手をつないで、頭を撫でて、偉いね、頑張ってねと言われたかった。 父はアルファだった。だから母が連れ出した。オメガの息子の、発情期に巻き込まれたくなかったのだろう。それくらい突然だった。 そして、その矢先の事故だった。 事故から一週間。祖父母が腫れ物を扱うかのような態度に変わっていた。 自分がオメガでなかったら。発情期が来なかったら。両親が死ぬことはなかったのかもしれない。 老体の祖父母に変わり、まだ何もわからない高校生である自分が、ありとあらゆる手続きを行った。 体調が整ったその日のうちに、警察署へ行った。 変わり果てた両親を見ることが罰だと言わんばかりで、祖父母がついてくることはなかった。 学校も一週間、事情を話して休んだ。ヒートのときも含めると、10日も通学しなかった。プライベートな事だからと、クラスのみんなには特に説明もしなかったようで、思春期特有の彼らの邪智で苦しめられたりもした。 「どうしたの…」 「……、こんにちは。」 もう疲れた。葵の心は悲鳴をあげていた。 開けている方が気が紛れるからと、写真館だけは葬儀後直ぐに開けた。 カウンターに座って、店番をするのは葵だけだが。 声をかけてきたのは、悠也だった。 大人のように憐れみを持って、施しを与えるでもない純粋な心配だ。 葵は、近所の大人から受け取った、高級菓子店で買ったのだろうお見舞いの品の洋菓子を一つ取り出すと、小さな悠也の手に握らせた。 「心配してくれてありがとう、でも平気だよ。」 「…、これいらない。」 あげたつもりのマドレーヌは、ムッとした様子で返された。好みじゃなかったのかと首を傾げると、悠也は言った。 「お菓子ほしくて、心配したんじゃねーもん!」 心底不服だと言わんばかりに叱られた。自分より8個も年下の、少年にだ。 「そっか、…ごめんね…」 「え、?」 ポロリと、零れ一滴が突き返されたマドレーヌにあたって弾けた。 一滴零れれば、またもう一粒。葵は酷く狼狽える悠也の目の前で、ボロボロと何度も涙を溢れさせた。 「な、ご、ごめんね!なんで?泣き虫!大人のくせに!」 「大人じゃ、ない。まだ、子供だ。」 「高校生は、大人じゃないの?」 「うん、」 年下の男の子の目の前で、葵は小さい子みたいに泣いた。流石に泣き喚くことはしなかったが、箍が外れるかのように溢れるそれを、悠也が慌てたようにハンカチで拭ってくれたのが嬉しかった。 「大人じゃないなら、泣くのも仕方ないかぁ…」 「っ、うん…」 大人がくれるお手本のような優しさよりも、小さな子がくれる優しさの方が、今の葵には必要だった。 必死で涙を拭ってくれる小さな体を思わず抱き込んでしまったが、一瞬硬直した後、仕方ないと言わんばかりにため息を吐きながら背中を撫でてくれた。 規則正しく背中を撫でる小さな手に、まだ葵の涙腺は壊れたままだった。

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