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手の平の上
「万事解決。卒業して落ち着いたら指輪だけでも買うことにした。」
「まじ!?益子のくせにやるじゃん!!」
あれから幾日か経ち、世話になったなと照れくさそうに笑った益子は、どうやらまた一回り大人へと向かって成長したらしい。
高杉くんも僕も、結局忽那さんの退院以降の話は聞けてなかったので、益子から言ってくれてひとまず安心した。
「癖にとか言うな!俺は最初っからやればできる子だっただろ!?」
「だってさ?どう思うきいち?」
「僕らにはイマイチ。」
「手厳しいがすぎる…俺のかっこよさは葵にしか伝わらんのかぁ…」
やっぱり僕らの前でも益子は益子だ。おちゃらけてるのが似合う。高杉くんが不意に益子の手首に巻かれた包帯を見やり、つい、と袖をまくった。
「やだえっち!!なにすんのよ!!」
「なぁこれ、どーしたん?」
「あー、これ?んふふふふ。」
益子のなんとも言えない照れたような笑いに、これは盛大な惚気が来るのではと高杉くんと身構える。自分から行くのはいいのだが、益子から語られる惚気は長いに決まっている。僕らにとっての地雷を踏みぬいたであろう高杉くんの脇を肘で続くと、すまんと返された。
「これは…いわね。」
構えていた僕たちの予想は呆気なく外れ、秘密にされる。なんだそれ逆に気になる!
結局最後まで教えてはくれなかったけど、なんとなく益子が幸せそうだったのでいいや。
「そういや報告書提出しなきゃいけなかったわ。」
そんな益子をよそ目に、なにか思い出したように高杉くんが声を上げた。そういや来期の予算検討に部活動の報告書がいるとか言っていた。
学がいればその場で渡すだけなのだが、最近は全然話さない。
「サッカー部の?」
「俺も写真部のあるわ!きいちは?」
「帰宅部なのでありまてーん。出しに行くならついてこーかな。」
なんとなく、後期の始業式までには仲直りをしておきたい。体育祭だってあるし、これを逃したらどんどん生徒会で忙しくなる時期に突入しそうだ。
なんとなく、自分が知らないうちに嫌なことをしていたなら、聞いて謝りたい。
「まだ学とギスギスしてんの?」
「してる、てか僕はよくわかってない。だから早く仲直りしたいなぁって。」
「んー、まぁ多分大丈夫だと思うけどなぁ。引っ込みつかなくなってんのあっちの方だろうし。」
がさがさとものが多い鞄の中からクリアファイルに入れた報告書を取り出す二人を待つ。部活動なんかしてないから、大人が書くような書式のA4サイズのプリントを見るだけで感心してしまう。
前年の実績だの目標に対する結果だの、余った予算はいくらで、後期の予定と目標など細々としたもの全部を几帳面に書いて埋める二人は、やっぱり部長なのだなぁと思う。
3年生は受験だので大変だと活動は既に免除されている人も多く、たまに顔を出して支持をする程度らしい。現場監督みたいな感じ、と高杉くんがめんどくさそうに言っていた。
「学いるといいなぁ、話しかけて逃げられたらどうしよう。」
「俺も話してみたいな、結局入れ違いっぽくなっちゃってるし。」
3人並んで一先ず職員室に向かう。几帳面な高杉くんにしては珍しく、顧問からの印鑑を貰い忘れていたらしい。
「あ、ごめん電話。あとから行くから先いっといて!」
「忽那さんかな?」
「忽那さんだな。」
みなまで言わんでもよくわかりますよ!!まじでだらしない顔で笑いよる。高杉くんと二人で了承の意味で親指を立てると、階段を上がって消えていった。なるほど電波か。
忽那さんめちゃくちゃ別嬪なので、未だに益子でいいのかと思うときもある。黙ってればかっこいいのに、いわゆる残念系の代表だ。
「忽那さんもオメガなんだよなぁ。」
「身近にいるの珍しいもんね。」
「そうかな?」
ひらひらと報告書を揺らして遊びながら高杉くんが笑う。なんだか嫌な流れを感じて話題を変えようと来ていたのだけど、高杉くんの続けたその言葉で完全に不意打ちを食らってしまった。
「だってきいちもオメガだろ。」
思わず歩いていた足が止まってしまう。悪手だ。こんなあからさまに態度に出すなんてどうかしている。僕より数歩進んだ高杉くんが、スローモーションのようにゆっくりと振り向いた。
「気づかないとでも思った?」
「…おかしいなぁ、言ってないのに。」
バレたなら変に誤魔化さないほうがいい。僕はしっかりと高杉くんを見つめ返した。無意識に俊くんに噛まれた腕を握る。動揺を悟らせるな、大丈夫。
「あのとき、きいちがいったんだよ?どうにかするって。」
「それだけで?」
「あとはエピペン。お前が忽那さんに応急処置したんだろ。」
「…マジでよく見てんな。」
あの状況での僕のうかつな一言が、高杉くんに疑惑をもたせ、そして応急処置に使ったエピペンをみて把握した。
焦っていたとはいえ、やっぱり詰めが甘い。オメガであることをいくら隠そうと思っても、本能に忠実なアルファにとっては違和感しかないんだろう。何かのトリガーを引いてしまったようで、さっきとは違う高杉くんの雰囲気に頭の中で警報が響く。
高杉くんは黙り込んだ僕の様子になにか思うところがあったのか、なにか思案する素振りをした後、まるで気軽に提案するように口を開いた。
「なぁ、俺が守ってやろうか?」
「は…」
何を急に、と思わず怪訝そうに見つめてしまう。守るとはどういう意味なのかが分からず黙っていると、何がおかしいのか吹き出すように笑った。
「気持ちは、嬉しいけど…僕も男だからね。それに守られるほど華奢じゃないつもりだけど?」
「そうかな?自覚ないだけなんじゃない?だってほら、」
「ちょ、…!」
高杉くんの長い足が数歩の距離を一気に詰めた。掴まれた肩ごと体を壁に強く押し付けられると、反動で肺から空気が咳として出た。
「か、ふ…っ!」
「あぁ、ごめんね?でもほら、危機感持ちなよ。腰だってこんなにも掴めそうなのに。」
「っぐ!や、やめ!力つよ…痛い!」
肩も背中もコンクリートの壁に強く押し付けられたのだ、痛いし腕だって痺れてる。首を腕で押さえたまま大きな手が腰をキツく掴む。
「なぁ、効くか試してみようか?」
「は、なん…っ」
退けようと強く掴んだ高杉くんの腕はびくともしない。生理的な涙を滲ませながら、わけがわからないまま睨みあげた瞬間。
忽那さんの時にも感じた不快な膜のような物に素肌を包まれるような嫌悪感が全身を包んだ。
「これ、オメガにはどうなの?アルファの威圧フェロモン。」
「ひ、…っ!」
あの時よりも濃いそれを、間近で浴びた。苦手にしている人こそ敏感に反応してしまうそのフェロモンは正しく僕に作用したようだ。
恐ろしいくらい、力が抜けてしまった僕は、いとも容易く体を抱えられて空き教室に連れて行かれた。
耳に残ったのは、スライド式の引き戸のドアが締まり、鍵をかけられた音。
そして床に落とすように降ろされた僕の視界の端で揺れる、準備室の緑色のカーテンだけが現実を示していた。
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