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歪んだ正義

泥濘が体を捉えるように、動き辛いことこの上ない。目の周りもなんだかまつげが絡まったように不快だし、腰のあたりには鼓動に合わせるかのように鈍痛が存在を主張してくる。 高杉はなんだか自分が胎児になったような気がして心もとなかった。 まるで庇護される側に回ってしまったかのような、そんな屈辱感。 学にそばにいてほしい。高杉が初めて好きになった人だ。アルファである自分が、初めて求めた人物。 絡まっていたまつげがゆっくりと解け、視界は目をつむっていたときと変わらない暗闇に染まっていた。不意に目端からホタルのようにふんわりとした小さな光が現れた。出処はわからない。ただゆっくりと導かれるように付いていくと、求めてやまなかった吉崎学が、高杉に背を向けて立っていた。 「学!!」 暗闇の中、訳のわからないこの世界の中で抱きしめたその背中はひどく華奢だった。 高杉はその華奢な身体が好きだった。庇護されるべき存在として、正しく作られた身体。 まるでアンドロギュヌスのように神聖な吉崎は、高杉が幼い頃から思い描いていたオメガそのものだった。 腕の中で吉崎の体が僅かに身じろぐ。口付けようとしてその小さな顎を掬う。 吉崎の大きな目はうっとりと高杉を捉えて離さない。 唇が重なろうとした瞬間。まるで囁くように呟かれた細い声。 「しね。」 あの時犯した片平喜一の声だった。 「っ、」 まるで真っ黒な穴に吸い込まれるような錯覚に無理やり覚醒させられた高杉は、唐突に目が冷めた。 白い天井には蛍光灯が嵌め込まれており、その両端に溜まった黒い煤のようなものが病室の白さには不釣り合いだ。 自分の腕には細い管に繋がれており、ちらりと視界の端に捉えた窓には雨が降ったのか水滴で濡れていた。 自分はなんでここにいるのだろうか。何時かもわからない。起き上がろうとして、腰のあたりに響くような痛みが走り、思わずうめいた。 「っ…なんだ…。」 痛みに震える手で腰に触れる。そこはひどく腫れて熱を持っており、軽く押すと奥から染み出すようにじわりとなにかが浸食した。 「ああ、…」 その痛みが呼び水になり、霞んでいた記憶が少しずつ明瞭になっていく。そうだ、学。 俺はあいつの為に報復をしたのだった。結局失敗に終わったが、無理やり犯した相手の具合はなかなかに悪くはなかった。 体格が学よりも大きいので、変わりにするには少々邪魔くさかったが。 学の為に復讐という名目で自分の意志で犯したが、最中のあの空虚な目。まるで犯している相手なんぞ見ていないとでも言うような表情だった。そう、他人事だったのだ。 自分のフェロモンが相手の深部にまで達していたとしても、あそこまで無抵抗なものなのだろうか。まるで己と体を切り離して、面倒くさいから早く終わればいいとでもいうような。 征服しているはずなのに、そんな自分が馬鹿みたいに思えてくるような時間だった。 高杉は眉間にシワを寄せると、小さく舌打ちをして再び目を瞑った。どうせ明日には面倒なことが待っている。明日が来ることに辟易するも、自分がしたことの自覚もあるのであきらめた。自分は大義を全うしたのだからそれでいい。 高杉は自分の腰にカッターを突き刺した女子ももうどうでも良かった。刺したかったんだからそうしたんだろう。俺が何したかはわからないが、と一瞬思考を巡らせようとして、辞めた。 体は疲れていたのだ。今は明日に備えて寝るべきだ。瞼を閉じる。不意に自分を見ようともせずに走って入室してきた男を思い出した。あいつの番なのだろうか。だとしたら、少しだけ…と考えたところで再び泥濘の中に意識が埋もれた。 朝から高杉は痛みに呻いて疲れ切っていた。それだけ腰の刺し傷の消毒は痛かったし、破傷風にならない為の薬や抗菌剤、そして点滴による生理現象でトイレまで行くのも傷に響かないように摺り足である。もはや全身の筋肉を使ったと言ってもいい。部活のトレーニングよりも試合よりも遥かに体力を使った。 ベッドでぐったりとしているときに、沈痛な面持ちで母が入室してきた時は、思わず出て行けと叫びだしたくなるくらいには苛ついていた。 ひどく攻められるであろうことは自覚はしていたが、ここで説教されるくらいなら後2.3時間休憩してからにしてほしかった。 しかし、母から言われた言葉は高杉の想像を遥かに超えていた。 「ごめんなさい、」 一瞬、何を言われたのかわからなかったのだ。明らかに自分に投げかけるような言葉ではないだろう。おもわず眉を顰めた。 「あなたのお父さんの言葉を、湾曲したまま捉えているのを訂正もせずにいた、私が悪いわ。…ごめんなさい。」 「は…、なにいって…」 高杉はぎょっとした。今まで生きてきた中での母の涙の衝撃が強すぎた。思わず顔を歪めて涙を流す姿を見て、今更ながらに自分のしでかしてしまったことの大きさをじわじわと自覚する羽目になった。 「あなたは、私とお父さんのせいで歪んでしまった。これは親の責任だわ。」 「歪む…?俺が?」 「アルファだからといって、許されない行為もあるの。それがあなたが今回したことよ。」 「わかってる、それは流石にな。やり方もまずかった。」 「わかってない。あなたが好きな人のために起こした行動だとしても、それは言い訳になんてならない。」 「言い訳なんてしてねぇよ…」 親父から逃げたくせに、ちゃんとしろといったくせに。 高杉の胸の内はぐるぐると渦巻き、複雑な感情が黒い淀みとなって口から飛び出してきそうだった。 親父は尊敬していた。アルファに生まれた自分の責務だと言って、生き方を教えてくれた人だ。 同じ男でも数少ないオメガという人種には手を差し伸べなければならないと。 だから吉崎に対しても、手を差し伸べたのだ。 中学の時に直感が教えてくれたのだ。こいつは庇護しなくてはいけないと。 だからまるで女子のように接した。周りの牽制も含めてだ。 まるで茨のように刺々しい空気を身にまとわせた吉崎という美しいオメガ。周りは思春期だ。弱みに付け込まれた吉崎は露骨に差別を受けていた。 まるで周りから特別扱いをされるように、オメガだから、吉崎は女の子みたいだから、と言われる。 自分のことをそう言われることに嫌悪感を覚えていた吉崎に、それを当たり前のことだとわからせる事が守る方法だとわかっていた。だから、周りから見てこいつは俺の雌だと思わせる為に接した。 効果は顕著だった。あいつは高杉の物であると周りが認識を改めると、稚拙な悪戯や思春期特有の心無い言葉などはパタリと止んだ。 高杉の、アルファとしての庇護に誤りはなかった。そしてそれは征服欲として高杉の満たされない部分を埋めてくれた。吉崎という存在が、己を満たしてくれたのだ。 「あなたのそれは、自己満足からくるものよ。」 力強い目だった。その目は先程泣いていたことなど嘘というように、正面からしっかりと自身を見据えていた。

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